ピーコックブルーの審判

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 新緑の木立の隙間から、眩しい初夏の陽光が降り注ぐ。  家族連れの多い日曜日の公園を通り抜け、大通りから外れた脇道を少し歩くと、白いタイル風の外壁の、こぢんまりとした2階建てのアパートが見えてくる。  スカートの短い裾を揺らしながら、一ノ瀬万里菜(いちのせまりな)はつま先で軽快に外階段を駆け上がった。ハッと気付いて、片手に持ったケーキの箱を抱え直す。  時刻は午後3時の10分前。ティータイムにはちょうどいい。  築20年のそのアパートは、外壁はところどころ黒ずみ、白いペンキで誤魔化している箇所も目につく。それでも、レトロでお洒落なその佇まいは、17歳になったばかりの万里菜の美的感覚をくすぐるのに十分だった。  階段を上りきった外通路の、そのすぐ手前の玄関ドアの前に辿り着くと、万里菜は指先でチャイムを押した。すぐにドアが開かれ、姉の百合菜(ゆりな)が顔を覗かせる。 「いらっしゃい」  目を三日月型にして笑う人懐っこい顔が、姉妹そっくりだとよく言われる。ついでに「三姉妹」などと言われて母まで喜んでいる始末だ。そんなに似てるかな?と万里菜は思う。  7歳も年上の百合菜は、姉というよりはむしろ近所のお姉さん、という関係に近いような気がする。  万里菜が小学校の高学年の頃にはすでに、百合菜は市外の高校へ電車で通学しており、学習塾へ寄って帰る毎日を送っていたため、家で顔を合わせることはほとんどなかった。  土日などは逆に、万里菜は友達と約束をして外へ遊びに出掛け、一方、百合菜は自室にこもり趣味の読書を楽しむことが多かった。  接点は少ないけれど、姉の穏やかで理知的な空気に、万里菜は幼い頃からずっと親しみを持ってきた。 「お邪魔しまぁす。じゃん、駅前に新しくできたケーキ屋さんで買ってきたよ」  万里菜がケーキの箱を見せびらかすように持ち上げると、百合菜は嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとう」 「どういたしまして。って、あれ?涼太くんは?」  いると思っていた人の姿を探して、部屋を見渡しながら万里菜が言う。キッチンに向かっていた百合菜は困ったような顔で肩をすくめた。 「急に仕事が入ったって。朝から出掛けてる」 「なんだぁ。話したいことがあったのに」  五木涼太(いつきりょうた)は、百合菜の高校時代からの恋人だ。それぞれ別の大学へ進み、社会人になった今も、穏やかな関係は続いている。  長い交際期間を経て、ひと月前、二人は同棲を始めるためにこのアパートへ越してきた。1LDKの室内はリノベーション済みなのか、築年数にしては新しい真っ白な壁紙が、バルコニーからの陽光を跳ね返している。  静かな通りに面した、陽当たりの良い部屋。百合菜はこうしていつも、穏やかで優しいものを選び続ける。この部屋も、涼太も。気が弱そうにみえるが、心根の優しさが滲みだすような笑顔をした涼太と百合菜は、万里菜の目から見てもお似合いのカップルだった。 「万里菜は紅茶でいい?」 「うん。あ、お姉ちゃん座ってて。私やるよ」  万里菜は慌ててキッチンへ向かい、姉の肩を押してリビングのソファに座らせた。 「ふふ、それじゃお願いしようかな。紅茶とティーカップはコンロの後ろの棚にあるから。お湯は電気ポットのを使って」 「はーい」  観音開きの棚を開け、整理された食器類の中からソーサー付きのティーカップを選ぶ。下の段には、コーヒー豆や茶葉などの入った缶が並んでいた。 「あれ?これ、何?」  同じ青いパッケージの袋がいくつも詰め込まれていて、万里菜はそのひとつを手に取って眺めた。 「あぁ、それ?バタフライピーティーっていうハーブティーだよ。涼太が美容に良いらしいからってたくさん買ってきてくれたんだけど…」 「飲んでないの?」 「うん…。けっこう前にカフェで注文したことがあったんだけど、ちょっと味が苦手で」 「へぇ、私、飲んでみたいな」  パッケージの封を切ると、少しだけ懐かしい夏草のような香りがする。テトラ型のティバッグの中には、くすんだ薄緑色の茶葉が入っていた。  万里菜は大きめのティポットの中へそれをふたつ入れ、電気ポットのお湯を注いだ。  トレイにティポットとカップを乗せ、リビングへ向かう。百合菜に言われて取り皿とフォークもあとから運んだ。  ケーキの箱を開けて、百合菜は短く感嘆の声を上げた。 「わぁ。すごい、このフルーツタルト、彩りがキレイで美味しそう」 「でしょでしょ。お店の中もね、すっごくお洒落だったんだよ。カフェスペースで貸切のパーティもできるんだって!」  万里菜は思いつくまま続けて言った。 「結婚式の二次会とか、あぁいうとこでできたらステキだなぁ」  百合菜はそれを聞き流しながら、タルトを慎重に持ち上げて皿へ移動させている。  万里菜はティポットを持ち、カップにお茶を注いだ。澄んだ青緑色が、カップを満たしていく。  畳みかけるように尋ねた。 「結婚式、挙げるんでしょ?」  万里菜の言葉に、百合菜はカップの持ち手に指を絡ませながら目線を落とした。 「お父さん、まだ怒ってる?」 「ちゃんと挨拶に来いって言ってた」 「はは、だよね」  弱々しい笑顔が少しだけ不安げだ。 「それにしても涼太くん、意気地がないなぁ。なぁにビビってんだか」  万里菜はわざと明るく言ったが、百合菜の顔はみるみる曇っていく。  重たい空気を振り払うように、万里菜は手を合わせた。 「おいしそう!食べよ!いただきます!」  タルトにフォークを刺し入れ、艶やかなゼリーでコーティングされたフルーツを口に入れる。爽やかな甘みが口に広がって、万里菜はひとときの幸せを噛みしめた。             ◇ 「万里菜、どこ行くの?」  帰りのホームルームが終わり、ざわつく教室をそそくさと飛び出して小走りに廊下を急いでいた万里菜は、後ろから呼び止められぎくりと足を止めた。 「このあと、みんなでカラオケ行くことになったんだけど、行くでしょ?」  クラスメイトの中田智美(なかたともみ)が、胸の辺りまで伸ばした髪を指に巻き付けながら聞いてくる。トイレでリップを塗り直したばかりなのか、赤みが増した唇が濡れたように艶めいている。 「あー、えっと、ゴンちゃんに呼び出しくらっちゃって。今から職員室」  万里菜は職員室の方向を指差しながら作り笑いを浮かべた。ゴンちゃんこと権田(ごんだ)先生は、クラス担任だ。 「何やらかしたん、万里菜」  智美の隣にいた吉見葉月(よしみはづき)が呆れたように薄く笑う。大きな目を細めて万里菜を見てきて、一瞬、身がすくんだ。 「なんだろ、課題提出が遅れたからかな…?」 「マジか。万里菜もカラオケ行くなら待ってよっか?」 「あ、いいよいいよ、長くなりそうだし。カラオケは残念だけどまた今度!」 「そっか、じゃうちら先帰るね」 「うんうん、また明日!」  精一杯の笑顔で手を振って、万里菜はくるりと背中を向けた。 はぁーーーー。  心の中で大きなため息をつく。それからまた急ぎ足で廊下を抜け、職員室の前を通り過ぎた。  権田先生、大ウソこいてごめんなさい。課題提出が遅れたのは本当のことだから、重ね重ね、すみません。  どんどん廊下を北に進んでいく。  薄暗い廊下には、ヒヤリとした空気が溜まっている。心なしか、上履きの底から冷たさが伝わってくる気がした。  さらに奥に進んだ廊下の突き当たりに、万里菜の目指す科学室がある。  扉に手をかけ、横に引く。部屋の中には数人の生徒がそれぞれ椅子に座り静かに本を読んでいた。  万里菜が小さな声で「こんにちはぁ」と言ったが、誰も万里菜のほうを見ようともしなかった。もとより挨拶を返してもらうつもりはない。みなそれぞれ、自分の世界に没頭する。ここはそれが許される場所なのだ。  放課後の科学室は、漫画同好会の部室になっている。  万里菜は正式に入部届けを書いたわけではない。同好会はただ、趣味を同じくする者たちに居場所を提供する程度のゆるい集まりなのだ。  万里菜が1年生の頃から入部して主に活動しているのは、服飾デザイン部だ。デザ部はクラスで仲の良い、流行に敏感でお洒落な友人たちに流されるまま入った部活だ。クラスでも華やかな女子のグループの中でつまはじきにされないため、万里菜も懸命にお洒落な女子高生のフリをしている。実際、メイクもネイルも頑張っているし、可愛い洋服や小物も好きだ。みんなで行くカラオケも、カフェも。  でも、それよりも何より、漫画が大好きなんだ!  …大きな声では言えないけど。  漫画同好会に出入りしているなんてクラスの女子たちに知られたら、どんな噂を立てられるかわかったもんじゃない。まだまだ「ヲタク」に対する風当たりは強い。だからこうして、隠れ蓑にしているデザ部がない曜日には、友人たちに内緒でこの科学室を訪れている。  三人ずつ対面で座る大きな実験机が六つ、科学室にはある。  窓際のそのひとつ、いつもの場所に、長い黒髪を左肩に流し、頬杖をついて一心に手元に目線を落とす整った横顔を見つけ、万里菜は駆け寄ってその首元に飛びついた。 「ちとせー!今日は何読んでんの?」  万里菜に飛びつかれてズレた眼鏡を押さえながら、才原(さいばら)ちとせが見上げてくる。今日も抜群に顔がいい。  ちとせはこの漫画同好会で知り合った唯一の趣味友だ。その美少女ぶりは万里菜が知る限り、学校一だと思う。 「ルナティック雑技団」  低めの上品な声でちとせが短く答える。読書をする時にだけ掛けるというノンフレームの眼鏡の奥、長いまつ毛に縁取られた、潤んだ瞳が美しい。 「あーみん!さすがちとせ、顔も趣味も最高」 「これ、お母さんのだよ」 「ちとせのお母様、最高」 「はいはい」  ちとせは首にかかった万里菜の腕を振りほどく。 「万里菜は?今日は何読むの?」  万里菜は通学鞄を開け、思わせぶりに漫画本を取り出す。 「ちとせ知ってるかな〜?無限の住人」 「え、しぶ。万里菜はホント食い散らかし系の雑食だよね」 「ちとせだって」  万里菜とちとせは漫画同好会の中でも、読み専門だ。  自分で作品を描いたり、部誌と称して二次制作に励む部員もいるが、それぞれ、活動は自由だ。  万里菜はちとせの向かいの席に椅子を引いて座り、古本屋で買ったばかりの漫画本を開いた。  最初の1ページ目を開く、しかも普段は勉強をする学校の教室で、堂々と。なんてワクワクするんだろう!  万里菜とちとせはすぐに本の世界に没入した。  万里菜が一冊目の半分ほど読み終えた頃、向かいの席でちとせが大きく伸びをした。  それを見て、万里菜も本を机に伏せて置く。 「ティータイムにする?」 「お、いいねぇ」  見た目は完全に凛とした美少女なのに、ちとせは話し方も仕草も全く気取ったところがない。そのギャップがまた万里菜にとってはたまらない。  万里菜は鞄を覗き込み、青いパッケージの袋を取り出した。 「昨日、お姉ちゃんからもらったんだ!」 「へぇ、バタフライピーティー?こんな寂れた校舎の最北地に全く似合わない映えドリンクじゃん」 「まぁまぁ、そういわずに。ここはうちらのオアシスじゃん?飲み物くらいはお洒落にしよ!」  万里菜は科学室から扉ひとつ隔てた準備室に行って、棚から自分とちとせのマグカップを取り出した。  準備室にある電気ポットは、保温状態になっている。すでに誰かがお湯を使ったのだろう。  二人分のマグカップにティバッグを入れていると、背後から話しかけられた。 「俺にも一個くれ」  振り向くと、科学同好会の小芝孝二(こしばこうじ)が立っていた。科学室は、科学同好会の部室でもある。 「あ、どうぞどうぞ」  万里菜は小芝が差し出したカップにティバッグをひとつ入れてから、顔をしかめた。 「小芝先輩、毎度のことでアレですが、やっぱ言ってもいいですか?それ、やめてもらえません?」 「なんでだ?マイカップだぞ」 「どう見ても実験用ビーカーでしょ!」  小芝は万里菜のひとつ上の3年生で、科学同好会のたった一人の部員だ。  去年までは科学だったのだが、当時の3年生が引退したあと、部員は小芝ひとりだけになってしまったため、科学部は不本意ながら同好会へ降格した。同じ頃、部員数の増えた美術部に追い出され、路頭に迷った漫画同好会が、部室として科学室を共同利用させてもらうことになったのだった。  小芝は一見、真面目で堅物そうな先輩だが、意外にも漫画同好会のメンツとすぐに打ち解けた。長く伸ばした前髪に隠れる瞳は、いまいち何を考えているか分かりづらいが、いつの間にか人の輪の中に自然と入り込んでくる、不思議な特技を持っている。  世の中、見かけによらず色んな人がいるなぁと万里菜は実感するのだった。 「ビーカー使うくらいならいっそのことアルコールランプでお湯を沸かすくらいやったらどうですか」 「いや、そこは迷わず文明の利器を使う」  小芝は真面目くさった顔で言いながら、電気ポットの「出」のボタンを押す。湯気とともにお湯がビーカーを満たした。  お湯はすぐに鮮やかな青色に染まった。 「あれ?」  万里菜が不思議そうにつぶやく。 「お姉ちゃんの家で飲んだのと色が違う」 「あぁ、赤紫色だろ?」  小芝は何でもないことのように言う。 「え?違います。もっと緑色っぽかったんです」 「緑?」 「はい、青と緑を混ぜたような、そんな色でした」  それを聞いて小芝は顎に手を当てて考え込んだ。 「それ、飲んだのか?」 「え、はい」 「体調は?」 「別に普通ですよ?ぴんぴんしてます」  万里菜は元気よく腕を振って見せた。その様子をみて、小芝は物騒なことを呟く。 「青酸カリじゃなさそうだな」 「は⁈青酸カリ⁈そんなわけないじゃないですか!」  万里菜はぎょっとして声を大きくした。 「可能性がないとは言い切れないぞ」 「なんでですか?」 「実験してみるか」  小芝は準備室の棚から、袋に入った白い粉を持ってきた。  そしてジップを開け、中に入っていたスプーンで一杯、粉をすくうとビーカーの中へ入れた。 「ちょ、何してるんですか!」  驚く万里菜に構わず、小芝は雑な手つきでガラス棒をビーカーに突っ込み、くるくるとかき混ぜる。  すると、ビーカーのお茶は青緑色に変化した。 「この色!この色です!お姉ちゃんの家で飲んだのは!え、まさかその粉が青酸カリ…?」 「そんなわけないだろ。これは重曹だ」 「掃除とかに使う重曹ですか?なんでお姉ちゃんの家のポットに重曹が?ポットの掃除をしようとしてお湯を換え忘れたのかな…?」 「一ノ瀬のお姉さんは、そんなにうっかりやなのか?」  万里菜は考えながらも、首を横に振った。 「いえ、お姉ちゃんが忘れるなんてことないと思います。同居人の彼氏も、普段から掃除はお姉ちゃんに任せきりらしいから、ポットに重曹を入れるなんてしないと思う」 「間違えて混入したのでないのなら、何者かが故意に混入させたか…なんらかの意図をもって…」 「え⁈お姉ちゃんが私を殺そうと青酸カリを⁈」 「落ち着け、まず、なぜお茶の色が変化したのか説明するぞ。もともと中性の水道水で淹れた場合、バタフライピーティーは最初に見たような青色だ。このお茶はph値で色が変化することで知られているだろ?カフェなどの演出でよく使われるのは、レモン汁を加えて赤紫色に変色させるものだ。レモン汁は酸性だから、酸性に傾くと赤紫色、それじゃアルカリ性だと?」 「…青緑色ですか?」 「その通り。重曹水はアルカリ性だから、バタフライピーティーは青緑色に変化したというわけだ」 「リトマス試験紙に似てますね」  万里菜の言葉に小芝は頷いて、 「青酸カリは正式にはシアン化カリウムといって、アルカリ性の毒物だ。他に水をアルカリ性に変化させるものといえば、モルヒネやコカイン、アスピリン、ストリキニーネなどの薬物があるが、一ノ瀬の体調に大きな変化がないとするなら…」  小芝はしばらく考えてから、口を開いた。 「もしかして、一ノ瀬のお姉さん、妊娠しているか?」 「え!どうしてわかったんですか⁈まだ家族以外、誰も知らないのに。安定期に入ったら籍を入れようって話をしてるみたいです」 「安定期ねぇ。なるほど…大体の見当はついた」  小芝は目を細めて頷く。 「え、どういうことですか?」  食い気味に尋ねる万里菜を、小芝は静かな瞳で見つめた。 「これから話すことは、あくまで俺の推察だ。必ずしも真実だとは言えない。それでも、一ノ瀬は知っておく必要があると思う」  小芝の慎重な口ぶりに、万里菜は身を固くして、次の言葉を待った。 「電気ポットのお湯に混入されていたのはおそらく、カフェインだ」 「カフェイン?コーヒーに入ってるやつですか?」 「あぁ、カフェインはアルカリ性の性質を持つ。しかもその昇華性を利用して、素人でも簡単に抽出することができる。それもごく身近な材料で」  小芝は、ホットプレートを使用したカフェインの抽出について万里菜に説明した。 「これはネットでも簡単に拾うことができる知識だが、まずホットプレートを200℃に温め、アルミホイルに乗せた緑茶葉の上に、陶器の皿を伏せて置く。しばらくすると緑茶から昇華したカフェインが皿の内側に結晶化してこびりつく。それを水で溶き、電気ポットに混入させれば、カフェインが含まれた無色透明のお湯の完成だ」 「どうしてカフェインなんか」  万里菜が首を傾げながら言う。 「聞いたことないか?妊娠中のカフェイン摂取には注意が必要だということを。胎児の発育不全や、妊婦の高血圧症などの要因になると言われているんだ。それとバタフライピーティーだが、子宮の収縮を促す成分が含まれているため、早産や流産のリスクがある。このお茶はお姉さんが買ってきたのか?」 「…いえ、お姉ちゃんの彼氏が」  小芝はパッケージを裏返して表示を確認した。 「日本語表記のない輸入品か。表示があれば妊娠中の摂取についての注意事項が書かれているはずだから、敢えてネットで購入したか」  その言葉に、万里菜の背筋がすっと寒くなる。 「カフェインとバタフライピーティー、どちらも過剰に摂取しなければそれほど問題はないとも言われているが、本人がそれと知らずに摂取させられているというのは大いに問題だ」  小芝は万里菜の瞳をまっすぐに見つめる。その目には確信めいた光が宿っていた。 「確実性は低い。でもこれは、小さな命に対する、明確な殺意だ」  万里菜の指先が、ひとりでに震えだす。 「まぁ、カフェインの混入自体は、まだお姉さんが自らおこなったという可能性も残されているが。しかしカフェインを摂取するだけなら、こんなに手の込んだことをせず、コーヒーや緑茶を直接飲めばいい。彼氏に何らかの理由で罪を着せる意図があったのなら話は別だが」 「その可能性は、ないと思います」  万里菜は昨日の百合菜の様子を思い出しながら、はっきりと言いきった。 「だって昨日、お姉ちゃんは、バタフライピーティーを一口も飲まなかった。カップを手に取って、じっと透明な青緑色を見つめていただけだった。今思えば、きっとお姉ちゃんは、バタフライピーティーを妊娠中に飲むことの危険性を知っていたのだと思います。だけど、涼太くんが善意で買ってきたのだと思っていたから、それが彼の優しさだと信じていたから、味が苦手だなんて言って飲まないようにしたんだと思います」 「そもそも、本当に結婚するつもりなら、安定期を待つ必要はまったくない」  そう呟いた小芝の顔が次第に歪んでいき、景色がぼやける。まばたきをすると、万里菜の瞳からいくつも涙がこぼれ落ちた。 「私…どうしたらいいですか…」 「とりあえず、電気ポットのお湯は今すぐ捨てるよう伝えたほうがいい」 「…はい」  百合菜がどれほど傷つくか、想像してもしきれない。万里菜の胸が苦しいほど痛む。  ポケットからスマホを取り出して、百合菜の携帯番号を表示させる。  涼太くんのバカヤロー。  昨日、涼太に会えたのなら、「お姉ちゃんのこと、末永くよろしくお願いします」って言うつもりだった。ずっとずっと大切にしてくれるって、そう信じていたのに。 「もしもし、万里菜、どうしたの?」  耳元で聞こえるいつもと変わらない姉の優しい声に、万里菜は堪えきれず声をあげて泣き出した。 (了)
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