自分の顔と自分の声

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 昔から、いつだって自分じゃない自分を演じてきた。  学校では人付き合いが上手く、機嫌の良い自分を。職場では仕事のできる、真面目な自分を。先輩に対しては人懐っこそうな自分。後輩に対しては頼りになりそうな自分。恋人に対しては愛想のいい自分。相手に応じて求められる自分像を見極めて、その度に自分じゃない自分を演じてきた。  それがおれの得意なところであり、また確実な欠点でもあった。  演じること自体がしんどいだとか、面倒くさいだとかいう以前に、もはやその生き方が昔からの自分自身の形だったのだ。  できるように見られたい。かっこよく見られたい。いい人に見られたい。だから周囲が求める自分の人物像を模索し、常に周囲の表情をうかがいながら、他人にとってちょうどいい自分を演出するのに必死だった。  基本的に演じることに対して大きな負担を感じることはそこまでないが、時折とんでもない自己嫌悪に陥ってふさぎ込んでしまう節がくる。  そんな時に限って、仮面の男はこうして夢に現れてはおれの話を聞くのだった。 「でも、悪気があるわけではないんだよな」  愚痴の聞き手として、彼は常に完璧だった。仮面の男はそんな言語化できないおれの心を的確に言い当て、おれの目の前にまるで形のあるもののように具現化して提示し、そして共感してくれる。 「きみ自身は気づいてないかもしれないけど、時にそれはきみの優しさでもある」  彼は腕を組みながらそう言った。  優しさ、という言葉が出てきたのは意外だった。時に、周りのためを思って必要とされる自分を演じてきたのは、確かに優しさと言われるものでもあるかもしれない。  多少無理をしてでも誰かに求められている自分をやることで、少しでも誰かの役に立っているという実感が欲しかった。それで誰かが助かるなら一石二鳥のようなものだと思っていた。  でも、それは結局のところ自分そのものではない。やはりいつかどこかで苦しくなってしまう。  良い自分を演じることで相手に信用され、そして自分が良い人間だと認識されると、その立ち居振舞いを常時強いられるのではないかという気持ちがつきまとってくるのだ。そうなると、関係を長く続かせるのが時に苦痛になってしまう。友人にしろ、恋人にしろ、それは同じだった。
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