ヒナ

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「変ねぇ。確かに渡したはずなんですけれど……」 「ウチの子はそんな紙もらってないって言っています。ウチは土日も仕事なんですから、事前に連絡してくれないと困るんですよ!」  保育園のお迎え口で、母親と思しき女性と、保育士と思われるエプロンを付けた中年の女性が問答をしていた。  そこに、若い女性が小さな女の子の手を引いて現れた。その若い女性こそが、ヒナであった。 「ミクちゃん連れてきたよー……あれ? ナニナニ、どうしたの」  ヒナがラフな様子で二人に話しかけると、母親に詰められていた女性は困ったような目でヒナを見る。 「運動会のプリントのことで、少しね」 「先週ウチの子に、運動会のプリントを渡し損ねたんじゃないかって言っているの! せっかくの行事だから、私もきちんと娘の姿を見たいんです。事前に日程を教えてもらえないとお休みが取れないんです」 「えー、特定の子に渡し損ねるなんてことないはずだけどー……? あ、ちょっと待って」  ヒナは「少しお邪魔しまーす」と言い、女の子の鞄を受け取った。  チャックには手をかけず、鞄の側面にある、名刺も入らないような小さなポケットに手を入れる。 「あったよー」  ヒナはポケットから、何重にも折られた紙を取り出した。  それは、まさしく今話題になっていた、運動会のお知らせのプリントだった。 「え……?」 「ミクちゃん、綺麗な石とか、タンポポの花びらとか綿毛とか、大切なものはよくここに入れてるもんね。このプリントは大切って、園長先生口を酸っぱくしていってたし。っていうか、これこんなに折ったの? めっちゃ上手じゃん。本当器用だねー。……はい、お母さん」  ヒナは女の子をひとしきり褒めたあと、広げたプリントを母親に手渡す。  母親はばつが悪かったのか、それとも自分の娘について自分よりも理解されているような気がしたのが嫌だったのか、眉をひそめた。そして紙を受け取ると何も言わず、娘の手を引いて帰ってしまった。 「ヒナちゃんありがとうね。助かっちゃった。良く知ってたわね、ミクちゃんのポケット」 「……前にミクちゃんが教えてくれただけだよ。アタシは別に……子どもたちのことを良く知ってたいだけだし」 「ああやって物怖じせずお母さんたちと向かい合って、しっかりと話してくれるの、本当にありがたいわ。私も見習わないといけないわね」  日が傾いたこの時間は、お迎えラッシュの時間帯だ。  保育士の誰かが捕まって人手が減るのは、なるべく避けたい。ヒナがプリントを見つけてくれなければ、女性はしばらくあの母親と不毛な問答を続けていただろう。  こうしている間にも、何組もの親子が手を繋いで帰っていく。 「……あれ?」 「どうしたの?」 「ササトくんのお迎え……今日は誰だろう」  ヒナは去っていく男性と男の子の後ろ姿を見ていた。 「あら、確かに珍しい。お父さん?」 「ねえ、ヨシダ先生!」  ヒナは彼らを見送った別の保育士のもとに駆け寄った。 「ササトくん迎えに来てたあの人、誰? 親戚の人?」 「いえ、お父さんよ。お母さんが忙しかったらしくて」 「お父さんって名乗ったの?」 「ええ、ちょっと前にお父さん自身から電話ももらっていたし。ああ、ごめんなさいね。みんなには伝えてなかったかしら」 「……そんなはずないよ」  先ほどまで明るかったヒナの声のトーンが、一気に暗くなる。  すると、ヒナは突然ポケットからバイクのキーを取り出して、玄関口から飛び出そうとした。  その様子を見て、周りのみんなが慌てて彼女を制止する。 「ちょっと、ヒナちゃん。どうしたの!」 「……ササトくんのお父さんは、あの人じゃない。アタシ見たことあるもん。身長がもう5センチくらい低くて、もっとなで肩だった」 「ええ? じゃあ、さっきの人は……」 「わかんない。だからこそ、すぐ追いかけなきゃ。もしかしたら家庭環境が変わったのかもしれないけど、その可能性は低いと思うから。……ヨシダ先生、念のためお母さんに連絡入れてくれる? きっと、父親が迎えに来るなんて話は無いはずだと思うからさ」  ヒナはそう言い残すと、エプロンを脱ぎ捨て飛び出て行ってしまった。 「――どうやら、ササトくんは誘拐されそうになっていたみたいで。ヒナちゃんがバイクで尾行して、彼らの居場所を警察に報告してくれたから、何とかなったの」  ヨシダ先生は当時をそう振り返った。 「本当に危ないところだった。でも、ヒナちゃんが活躍してくれたから。彼女がいなかったら、私はあの日のことを一生後悔していたと思う。まさか、私の本当に近くで誘拐事件が起こるなんて、夢にも思っていなかったから……。あの日から今日まで、少しでも知らない顔がお迎えに来たら、身元確認は欠かしていないわ。一度も」  そこまで言い終えて、ヨシダ先生は唇に手を当てる。 「でもここだけの話、ヒナちゃんって凄すぎるのよね。そもそもヒナちゃんって、常勤の保育士ではなくって、たまに手が足りないときにお手伝いで来てくれる子だったのよ。しかも確認したら、ササトくんのお父さんがお迎えに来たのは過去に一度だけ、それもあの日から二年前だったの。その日たまたま、ヒナちゃんの出勤はあったみたいなんだけれど。私……正直、本業でもない場所で二年前に一度会っただけの人のこと、覚えている自信は無いわ」
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