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女性の悲鳴を耳にし、ヒナは客席の間をスイスイと進んだ。
離陸から1時間ほど経過した機内。この日はトラブルが絶えなかった。
ワインをこぼしたなんていうのはこの日起こったトラブルの中ではかわいい方で、客同士の喧嘩、座席交換の見返りがないという文句、酔って脱ぎだす客、乗務員の態度が悪いといういちゃもん……など、このフライトを録画しておけばクレーム対応の教材になりそうなほどだった。
ヒナは過去にわずか二度のフライト経験しかなかった。他のキャビンアテンダントも各々の対応に追われており、その客の元へヒナがたどり着いたのは偶然だった。
しかも、本来ならこのフライトは彼女の担当ではなかったのだ。搭乗予定だった同僚が体調不良で倒れてしまい、急遽穴埋めする形になったのが彼女だった。
現場についたヒナは悲鳴を上げた女性には目もくれず、通路で胸を抑えた恰好で倒れた男性を仰向けに返した。
「もしもし、大丈夫ですか」
ヒナは男性の肩を強めに叩く。しかし、反応が無い。
「彼はどうしたのですか?」
「き、急に。変な声を出したと思ったら、こうなってしまって……」
悲鳴を上げた女性から事情を聞いたヒナは、少しの間男性を観察していた。すると、おもむろにジャケットを脱ぎ、腕まくりをして男性のシャツのボタンを外す。
「え、え?」
女性が困惑する中、彼女は両手を男性の胸に押し当て、グッグッと圧迫し始める。
その時、ようやく客同士の喧嘩を諫めた先輩のキャビンアテンダントが到着した。
「ヒナちゃん、これは……!」
「先輩、機内のAEDを。急いでください」
ヒナは淡々と喋ると、そのまま男性の顎を持ち上げ息を吹き込む。
男性は心室細動を起こしていたのだ。
「わ……わかった」
ヒナの態度に気圧されたのか、それとも状況を察知したのか、先輩は慌てて踵を返すとすぐにAEDを持って帰って来た。
「みなさん、この方に触れないように離れてください。先輩はドクターコールを」
先輩はバタバタとインターホンの元へ向かう。ヒナはテキパキとAEDの電極パッドを男性の胸に貼り付け、AEDからは電気ショックが必要だという音声メッセージが流れた。
「離れてください。ショックを行ないます」
無機質なヒナの声と、それに続いてAEDが機械音で電気ショックを行なったことを告げる。
周りの人間が、一瞬どちらがヒナの声かわからないと感じてしまうほど、彼女の声は平坦だった。
彼女はすぐに心肺蘇生を再開し、先輩のドクターコールを受けてやって来た医師に場所を譲る。その後、男性が声を発するまで医師と代わる代わる胸骨圧迫と人工呼吸を続けた。
着陸後、男性の対処は救急隊に引き継がれ、結果命を取り留めた。
「本当、あの日は色々なことが起こりすぎて。……そんな中でも冷静に救命活動を行なえたヒナちゃんからは、見習うべきところがいくらでもあります」
AEDを持ってきた先輩キャビンアテンダントは、後日こう語った。
「緊急時の訓練は積んでいますし、努めて落ち着こうとは考えていますが……あの日、あれほどトラブルが続出した状況で的確に心肺蘇生の判断ができたかどうかは、正直なところわかりません。……ですから、私は仕事中焦りそうになったとき、彼女の姿を思い出すんです。あの姿は、まるで……」
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