3人が本棚に入れています
本棚に追加
車いすに乗った老人は、ベランダで春の風を感じていた。
「あら、珍しい。起きてらっしゃったんですね」
「……ああ。寝付けなくてね」
老人は器用に車いすをくるりと回転させる。
「ある人物に思いを馳せていたら、朝になっていたよ」
「きちんと睡眠は取ってくださいね。もう無理のできる年じゃないんですから。……誰に、思いを馳せていたんです?」
「……ミステリアスな女性についてさ」
「へー、それは眠れなさそうです。……朝ごはんはまだですか?」
老人に語り掛けた若い女性――ヒナは、キッチンに向かって歩き出そうとする。
「今日は、もう食べたよ。トーストとコーヒー。朝が早くてね、お腹が空いてしまったから」
「食欲があるのはいいことです。それじゃあ、まず掃除から始めますか」
ヒナははたきを手に取り、棚の上に目をやった。すると老人が、彼女を制する。
「……いや。少し、わがままを聞いてもらってもいいかな」
「はい。……何でしょう?」
「散歩に連れて行って欲しいんだ」
「ええ、いいですよ」
ヒナははたきを置くと、老人の背後に回って車いすを押し始めた。
散歩をするなら、老人が好きな川沿いの道だ。二人は玄関を出ると桜の花びらを浴びながら、その道へと向かう。
「君はお手伝いさんとして、本当に優秀だ。掃除は埃ひとつ残さないし、主人の気分に合わせて色々なことを察して動いてくれる。今まで失敗したことなんて、一度もないんじゃないかな?」
「いえ、そんなことはないですよ。私だって昔は、色んな失敗をしました。相手の気持ちを理解できずに仕事をしてしまったり、お叱りを受けることもしょっちゅうでした」
「昔だなんて。君はまだ若いのに」
二人は川沿いの道についた。朝からランニングをする若者や、座って水面を見ながら時間を潰す青年、釣り糸を垂らした中年など、様々な人がそれぞれの時間を過ごしている。
「……ある女性について、考えていたんだ。実は、私はその女性について色々と調べていてね。偶然にも、君と同じ名前の女性だ」
「私と同じ名前、ですか?」
意外な言葉に、ヒナは少し戸惑ったようだった。
「ああ。……ヒナという、若い女性のことだ」
「なるほど、自分で言うのもなんですが、珍しい名前ですね。私は他のヒナさんに会ったことがありません」
「ある時は保育士、ある時はキャビンアテンダント。……コンビニ店員や不動産屋だったなんて話も聞いたことがあるな。とにかく神出鬼没で、共通しているのは若い女性であるということ。そして、同じような見た目だということ」
老人は振り返り、車いすを押してくれている女性を見る。
「君によく似た特徴の女性ばかりだそうだ」
「……ふふっ。ドッペルゲンガーでしょうか。偶然って、怖いものですね」
おどけるヒナに微笑んだあと、老人は深呼吸して、青空を仰ぎ見た。
「これは、私の独り言だと思って聞いてくれ。……実は私は、そのヒナという女性に、何度か命を救われたことがあるようなんだ。彼女自身の姿を見たことはないんだけれどね。不思議な話だろう。私は、彼女に会ってお礼が言いたかったんだ。けれど、色々と調べているうちに、命を救われたのはずいぶん昔の話になってしまったよ。……これは私のエゴだけれどね。ついぞお礼を言えなかったそのヒナという女性への感謝の言葉を、君に言わせて欲しいんだ」
ヒナはぽかんとして、老人の方を見る。
「どうして、急にそんなことをおっしゃるのですか?」
「私の心臓の具合は知っているだろう。きっと、先は長くない。……だからせめて、今面倒を見てくれている君に、過去お世話になった人たちの姿を重ねさせてはもらえないか」
「……そういうことなら。謹んで伺いましょう」
ヒナは車いすのストッパーをかけ、老人の前にしゃがみ込む。
「いつも見守ってくれていてありがとう、ヒナさん」
老人の言葉を聞くと、ヒナはゆっくりと微笑んだ。
「どういたしまして、ササトさん。……きっと、あなたを救ってくれたヒナさんたちも、喜んでいると思いますよ」
最初のコメントを投稿しよう!