ヒナ

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 車いすに乗った老人は、ベランダで春の風を感じていた。 「あら、珍しい。起きてらっしゃったんですね」 「……ああ。寝付けなくてね」  老人は器用に車いすをくるりと回転させる。 「ある人物に思いを馳せていたら、朝になっていたよ」 「きちんと睡眠は取ってくださいね。もう無理のできる年じゃないんですから。……誰に、思いを馳せていたんです?」 「……ミステリアスな女性についてさ」 「へー、それは眠れなさそうです。……朝ごはんはまだですか?」  老人に語り掛けた若い女性――ヒナは、キッチンに向かって歩き出そうとする。 「今日は、もう食べたよ。トーストとコーヒー。朝が早くてね、お腹が空いてしまったから」 「食欲があるのはいいことです。それじゃあ、まず掃除から始めますか」  ヒナははたきを手に取り、棚の上に目をやった。すると老人が、彼女を制する。 「……いや。少し、わがままを聞いてもらってもいいかな」 「はい。……何でしょう?」 「散歩に連れて行って欲しいんだ」 「ええ、いいですよ」  ヒナははたきを置くと、老人の背後に回って車いすを押し始めた。  散歩をするなら、老人が好きな川沿いの道だ。二人は玄関を出ると桜の花びらを浴びながら、その道へと向かう。 「君はお手伝いさんとして、本当に優秀だ。掃除は埃ひとつ残さないし、主人の気分に合わせて色々なことを察して動いてくれる。今まで失敗したことなんて、一度もないんじゃないかな?」 「いえ、そんなことはないですよ。私だって昔は、色んな失敗をしました。相手の気持ちを理解できずに仕事をしてしまったり、お叱りを受けることもしょっちゅうでした」 「昔だなんて。君はまだ若いのに」  二人は川沿いの道についた。朝からランニングをする若者や、座って水面を見ながら時間を潰す青年、釣り糸を垂らした中年など、様々な人がそれぞれの時間を過ごしている。 「……ある女性について、考えていたんだ。実は、私はその女性について色々と調べていてね。偶然にも、君と同じ名前の女性だ」 「私と同じ名前、ですか?」  意外な言葉に、ヒナは少し戸惑ったようだった。 「ああ。……ヒナという、若い女性のことだ」 「なるほど、自分で言うのもなんですが、珍しい名前ですね。私は他のヒナさんに会ったことがありません」 「ある時は保育士、ある時はキャビンアテンダント。……コンビニ店員や不動産屋だったなんて話も聞いたことがあるな。とにかく神出鬼没で、共通しているのは若い女性であるということ。そして、同じような見た目だということ」  老人は振り返り、車いすを押してくれている女性を見る。 「君によく似た特徴の女性ばかりだそうだ」 「……ふふっ。ドッペルゲンガーでしょうか。偶然って、怖いものですね」  おどけるヒナに微笑んだあと、老人は深呼吸して、青空を仰ぎ見た。 「これは、私の独り言だと思って聞いてくれ。……実は私は、そのヒナという女性に、何度か命を救われたことがあるようなんだ。彼女自身の姿を見たことはないんだけれどね。不思議な話だろう。私は、彼女に会ってお礼が言いたかったんだ。けれど、色々と調べているうちに、命を救われたのはずいぶん昔の話になってしまったよ。……これは私のエゴだけれどね。ついぞお礼を言えなかったそのヒナという女性への感謝の言葉を、君に言わせて欲しいんだ」  ヒナはぽかんとして、老人の方を見る。 「どうして、急にそんなことをおっしゃるのですか?」 「私の心臓の具合は知っているだろう。きっと、先は長くない。……だからせめて、今面倒を見てくれている君に、過去お世話になった人たちの姿を重ねさせてはもらえないか」 「……そういうことなら。謹んで伺いましょう」  ヒナは車いすのストッパーをかけ、老人の前にしゃがみ込む。 「いつも見守ってくれていてありがとう、ヒナさん」  老人の言葉を聞くと、ヒナはゆっくりと微笑んだ。 「どういたしまして、ササトさん。……きっと、あなたを救ってくれたヒナさんたちも、喜んでいると思いますよ」
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