帰宅

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 出たところで僕の着替えを持ってきた萌子と鉢合わせた。 「あら、どうしましたか?」 「これ、誰の歯ブラシ? 僕は電動を使っているし、君のは赤だよね」  僕がそう言った瞬間、彼女の目は見開かれ、顔色がさっと青ざめた。 「どういうことか、説明してくれる?」 「も、申し訳ありません!!」  妻は……いや、今は一人の女性従業員に戻った彼女は、一歩下がって深々と頭を下げた。 「いや、謝られても……。今回はケンカ系のイベント申し込んでないですよね?」  さすがに僕もこれ以上演じる気になれず、一人の客として彼女に問いただす。 「はい、仰る通りです」 「ゆったりとした夜でくつろぎたいってお願いしたと思うんですよ」 「本当にすみません」  彼女は頭を下げながらすみませんと繰り返した。  だが、謝って貰ったところで手遅れなのだ。 「申し訳ないけれど、電話させてもらいますね」 「……はい」  頭を下げたまま、彼女は諦めたように小さな声で返事をした。  僕は廊下に置かれた固定電話の受話器を取り、番号をプッシュした。  呼び出し音が二度ほど鳴って、すぐに女性の声がした。 「はい、レンタルファミリーお客様サービスセンターの向井です」  僕は会員ナンバーと名前を告げ、それから苦情の内容を伝えた。 「申し訳ありません。完全にこちらの落ち度でございます」 「今日はゆったりしたかったんですよ。けど、これのせいで台無しです」 「申し訳ありません。原因としましては、前のお客様が延長で長引いたため、その後の片づけで見落としが発生したものと……」 「それはそちらの都合でしょう!!」  僕は思わず声を荒げてしまった。  言い訳なんか聞きたくない。僕が失ってしまったゆったりとした夜の代償として、どんな誠意を見せてくれるのかという事だ。 「おっしゃる通りでございます。今回の件につきましては、完全にこちらの責任でお客様の大切な時間を奪ってしまいました。誠に申し訳ありません。今回の料金につきましては、無料とさせていただきます」 「もちろんです。それだけですか?」 「いえ、次回にお使いいただけますクーポン券を差し上げます。何卒、これでご容赦のほどを……」  これが最大限の誠意だろう。  これ以上粘ったところでクーポン券の枚数が増える程度だ。  もちろんあっても悪くはないが、こういう失敗を犯したところのサービスは、できればあまり利用したくはない。  僕はそれで了承し、平謝りする妻役の女性に声をかける事もなく、そのまま家を後にした。
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