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早瀬 朔を最初に見た時、彼は老婆の役を演じていた。
大学に入って新歓のピークが過ぎた頃、つまり3年前の初夏の時期だったと思う。たまたま友達に誘われて立ち寄った大学のミュージカルサークルの公演。脇役にも関わらず舞台上のどの人物よりも強烈な存在感を放つ人がいた。曲がった腰に、つぎはぎだらけの衣装。最初はその風貌から、あまり人気のない役なのだろうと、だからその人の実力も大したことがないんじゃないかと、素人の俺は高をくくっていた。
だが、彼女が声を発した瞬間、それは間違いだとわかった。さっきとは明らかに違う空気に背筋がピリつく。柔らかく澄んだ歌声と、慈悲を乞うようでいてどこか切ない表情に目が離せない。
子守唄のような心地良いテンポに脳を揺さぶられ、最後の余韻が耳に絡み付く。そこに、荘厳に鳴り響く聖堂の鐘の音が重なる。舞台は徐々に暗転し、気付けば次の場面にもう彼女はいない。一瞬の幻でも見たかのように、終演後もしばらく放心状態だったのをよく覚えている。
さらに後でパンフレットを見た時、その老婆役の彼女が男だったと知って卒倒しそうになったことも。
次の日俺は早速その劇団の門を叩いた。初心者で役者希望はなかなか厳しいとの説明も受けたが、入部することに一切の迷いはなかった。
それからはとにかく毎日のように朔の隣をキープし続けた。サークル活動のない日も何かと理由をつけては練習に付き合ってもらったし、長期休みにはブロードウェイを観にニューヨークまで行ったこともあった。幼少期から歌や演劇を習っていた彼も本場のミュージカルは初めてだったようで、ただでさえキラキラとした目をさらに輝かせていた。
そんな朔といつか一緒に舞台に立ちたい。芝居の中だけでも、かけがえのない存在になりたい。
その思いが日に日に膨らみ続けたおかげで、加入した翌年、2年生の終わり頃には初めて兵士Aの役をもらうことができた。
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