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episode 2 名古屋へGO 1
橋下は机にファイルを高く積み上げて、一つ手に取り眺めては放り投げ眺めては放り投げを繰り返していた。
名古屋に知り合いがいないわけではない。懇意にしてる事務所だって少なくない。だが話はそう簡単ではない。相手は社会の常識もその筋の常識も通用しない〈中京連合〉。カネで頼めば相当吹っかけられるし、その他の見返りも要求されるだろう。古くからの付き合いならカネはともかく間違いなく理由は聞かれる。適当な理由を作れなくはないが、みな海藤クラスのバケモンだ。作り話などすぐに見抜かれてしまうし、バレたら間違いなくタダでは済まない。だからといって本当のことを話せば、絶対に『ウチにも噛ませろ』と言われるだろう。だが恐らくそんなことをしたら黒金と会うことすら叶わないだろう。
〈中京連合〉とも渡りあえて、こっちの都合のいいヤツ。そんなものは存在するはずがなかった。
「──菅原、胃薬あったか?」
机の上で何やらメモを取っていた菅原は慌てて立ち上がり、救急箱まで走った。
「胃薬っす」菅原は机の上に薬箱とグラスに入った水を置いた。
橋下は胃薬の箱を手に取り、まじまじと眺めた。
「──俺は胃薬を持って来いって言ったはずだぞ?」
「はい。それ胃薬っす」
「馬鹿野郎ッ! 胃薬といえば〈太田胃散〉に決まってるだろうが!」
「でも胃が痛いの長いじゃないすか? 薬局のオネエサンに相談したら『だったら〈ガスター10〉のほうがいいかも』って言われたンで」
「……」
「H2ブロッカー配合っす。H2ブロッカーってすげえらしいっす」
「その〈薬局のオネエサン〉ってのはどんなオンナだ?」
「この道三十年のベテラン薬剤師っす」
なるほど。菅原はちゃんと薬剤師に症状を相談して買ってきたわけだ。それなりに気をつかってるのかもしれない。ただ自分の話をちょっとよく聞いてないだけだ。橋下は胃薬は生まれてこのかた〈太田胃散〉しか飲んだことはない。
「わかった」橋下はそう言って、眼鏡を頭に乗せて細かい文字を睨んだ。〈一回一錠。一日二回まで〉。それを確認して薬を飲んだ。
「──どうすか?」菅原は心配そうに尋ねてきた。
「まだ飲んだばっかりで何も変わってねえわ」
そっかーと菅原は残念そうに呟くと、胃薬とグラスを手に戻って行った。
「橋下」
窓際でぼんやり外を眺めて考え事をしていた早川がふいに橋下を呼んだ。橋下はすぐに立ち上がって、早川ももとに向かった。
「──何かいい案は浮かんだか?」早川も名古屋のことを考えていたんだろう。
「いえ。いっそのこと警察に任せちまったらどうかと」
「名古屋の警察は優秀か? あ?」
「いえ、そこまでは。上が代わったばかりなのでなんとも」
上が代わったばかりでまだうまく機能していないかもしれない。その可能性のほうが高いだろう。
「ただ──任せられるところがないですね。条件が合わないところばかりです」
「だろうな」早川は電子タバコを咥えた。そして内ポケットからメモを取り出し、橋下に差し出した。「だから考えてみた」
橋下はそのメモを受け取って目を通した。
「なんですか、これ?」
「名古屋に行くメンツだ」
「マジですか?」
「俺が冗談言ってるように見えるか?」
い、いえと橋下は慌てて答えた。
「俺が出張っていければそれに越したことはねえが、この時期に出張って行ったら目立つに決まってる。神奈川県警の野郎が付いて来たりすりゃ、それこそ向こうの顔を潰しかねない」
でしょうね。そう言いたかったが、このメンツを眺めればそれも言いかねた。
「でもその間の若頭には誰が?」
「郷原に頼もうと思う」
橋下はもう一度メモを眺めた。郷原がこちらに来てくれれば、かなり安心なのだが。
「郷原はいま事実上は叔父貴の組にいる。どこから漏れるか分からねえからな。外した」
「はあ」それはそうだ。
「──頼んだぞ、橋下」
その言葉に一礼して席に戻った。メモをもう一度眺めた。
副島、大倉、立石、菅原。
大倉でさえ経験不足だ。立石はもっと経験が足りない。菅原に限っては未知数。それに副島はどうせ自分の言うことは聞きゃしない。
橋下は早川に気づかれないようにそっと息を吐いた。
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