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「──で、これが名古屋土産ってわけだな?」
「はあ」
早川は机に置かれた袋を一瞥すると菅原にそう言った。早川の隣には困ったような顔をした郷原が立っていた。
菅原は早川に頼まれた名古屋土産を買うのを忘れたと言った。遊びで行くわけでもないので、それはただ言っただけで気にすることはないと橋下は言った。だが菅原はそれでも一応何かは買っていきたいと海老名のSAに寄ることを希望した。副島も「仕方ないですねえ」と渋々許した。誰も彼もが早川がそう言ったことを本気にはしていなかった。
「名古屋土産が海老名のメロンパンってどういうことだ? 俺は名古屋土産を買って来いって言ったよな? いつから海老名は名古屋になったンだ?」
「──すんません」菅原は小さくなって謝った。
早川は盛大に拗ねていた。郷原も何と声をかけたらいいか考えあぐねているようだ。菅原は橋下をチラリと見た。仕方ねえと橋下は頭を掻いた。そして口を開きかけると事務所の扉が開いた。
「おお、無事で帰ってきたな」姿をあらわしたのは海藤だった。みな立ち上がって「お疲れさまでございます」と頭を下げた。
「誰も怪我はねえな?」
「はい。無事戻って参りました」早川が答えた。
「それはなにより」
立石は慌てて茶を入れようと動いたが、海藤はそれを止めた。
「すぐに野暮用で出なきゃならねえから。ちょっと顔を見に寄っただけだ」
海藤はすぐに踵を返した。
「──あ、あの!」菅原は海藤に駆け寄った。「よかったらこれ。名古屋土産っていうか海老名のメロンパンなんすけど」
海藤は一瞬目を丸くしたが、すぐに差し出された袋を受け取った。「おお、手土産に持って行くわ」そう嬉しそうに言って事務所をあとにした。
ちょっと顔を見になんて理由で海藤が事務所に顔を出すことはほとんどない。やはり青写真を描いたのは海藤に違いないと橋下は思った。
「お、おいっ! アレは俺への土産だろうがッ!」早川が菅原に怒鳴った。
「え? いや、若頭はいらねえって」
「ひと言もそんなこと言ってねえし」
早川はそう言って音を立てて椅子に腰を下ろした。「親父も喜んでたことですし」と郷原がフォローを入れたが、早川の機嫌は直らなかった。
「俺だってお前らと一緒に名古屋に行って、味噌おでんとか味噌カツとか食いたかったってのに。行けねえっていうしよお」
「はあ」郷原はかける言葉もなく困っていた。早川は拗ねまくっていた。しばらくはこのままだろう。
ああ、胃が──痛くない。橋下は胃を押さえながらそう思った。そういえば痛みを感じない。これはもしやH2ブロッカーのおかげか? これからは〈太田胃酸〉の隣にH2ブロッカーの胃薬を入れておこう。
橋下は顔を上げて菅原を見た。目が合った菅原は困ったように笑って橋下を見ていた。
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しばらくしてちょうど車で桜木町の駅前の信号待ちをしていた時だった。見知った顔の団体が目の前を通った。木崎だった。木崎は年上の男性と若い奴らに囲まれて揉みくちゃにされていた。こちらには気がついていないようだ。
相変わらずだな。橋下は苦笑した。とてもとんでもない上の連中を動かしてるように見えない。
ふいに視線を感じた。木崎達の少し後ろを歩いてた男だった。大柄な──その男は橋下を見て頭を下げた。
そしてその男は名を呼ばれ慌てて走って行った。春日だった。
バレてたか。橋下は苦く笑って煙草に火を点けた。信号が青に変わった。橋下は車をゆっくりと発進させた。
fin
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