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episode 3 little brother 1
事務所に多く人がいるわりにはのんびりした午後だった。もうすぐ正月がくる。そうすればこの忙しさからも解放される。橋下はホッと胸をなでおろした。このまま問題なければもうすぐいつもの正月が始まる。そうすれば朝から飲んで転がっていられる。
正月が近いせいか皆和やかな雰囲気だった。今日は真中の組の連中が集まって早川と話をしていた。恐らく本部長に誘われた沖縄旅行の件だろう。早川は「叔父貴はいいなあ」なんて言ってるが、自分が行かなくてホッとしていることはみえみえだった。だが当の真中はそれはそれで楽しみにしてるらしく、そう言われて悪い気はしていないようだった。
早川が行けなくて橋下も実のところホッとしていた。絶対に休みにならないからだ。
こればかりは姐さんにお礼を言わなくちゃいけねえところだな。橋下はそっと思った。早川の妻はまだ身体の調子が本調子ではないらしい。それに仲良くなった知り合いなんかと正月を過ごしたいと早川にはっきり言った。
『行きたいならあなただけ行ってきて』妻は躊躇することなくそう告げた。
『亘くんが遠山さんの家にお呼ばれしてるらしいの。だったら私も行かないとでしょう? それに譲二くんと真理衣ちゃんにお年玉もあげないとだし。ごめんなさい、私忙しいの』
それを聞いた早川はキレていた。
「何で亘が呼ばれてると行かなきゃならないのか分かんねえし、お年玉なんてあとから渡しゃいいじゃねえか。しかも私忙しいってなンだよッ! しまいには『誰か他の人を誘って。女の子の一人や二人いるでしょう?』って言いやがって! ふざけんなッ!」
早川はそう怒鳴って宥めるのに骨が折れた。だが正月に休めないくらいなら、そんなことは可愛いものだ。
妻からそう言われて早川は沖縄行きをやめた。本人は浮気を疑われても面白くないと言っていたが、アレは絶対嫁の浮気を心配していると橋下は思った。
当たり散らかす早川は面倒だったが、それでも結果として代わりに真中が喜んで行くことになったのだからよかった。胃も痛くない。橋下は機嫌よくデスクの整理をしていた。
橋下がふと顔を上げると、カレンダーを握って難しい顔をして唸ってる菅原の姿があった。
「おい、菅原。なにしてンだ?」
菅原は名前を呼ばれて橋下を見た。やはり難しい顔をしていた。
「──カレンダーを見てるっす」
「だから何でそんな顔して見てンだって聞いてるんだが?」
菅原は面白くなさそうな顔をして、またカレンダーを見つめた。
「正月、ヒマなんす」
橋下は首を傾げた。昨年はそんなことを言っていただろうか。
「毎年実家に帰ってたんじゃなかったか?」朧げに思い出す。確か相模原だったか。そこまで遠くないし、何か問題でもあるのだろうか。
「帰ってたっすけどお。今回は帰れないンす」
「どうしてだ?」
「妹が──受験なんす。だから帰ってくるなって」
ああ、なるほど。だが正月くらい勉強しなくたってよさそうなものだと思うが。
「俺と違って妹は優秀なンす。それで帰ってきて遊びに行く姿を見せるなって。それになんか風邪とかうつされても困るって」
「オマエが風邪ひいてるのなんか見たことないけどな」
「そうなんすよお。でもそう言われちゃうと帰れねえっていうか」
「まあ、そうだな」
菅原にもいろいろ事情があるのだろう。それに優秀な妹にヤクザの兄の姿はそろそろ見せたくないということもあるだろうと橋下は思った。
「みんななんか忙しいっていうし。そうすっと俺ずっと家にいるしかねえっていうか」
菅原はひとりでぐちぐちと言い始めた。
「──じゃあ、ウチ来るか?」
橋下がふとそう声をかけると菅原は勢いよく橋下に振り返った。
「マジっすか!?」
「お、おう……」そんなキラキラした瞳で言われたら、適当なことを言ったとは言い出しづらくなった。
やったー! とか言って喜んでるし。「橋下さんもひとりっすか?」
「まあ、そうだ。食いもんはテメエが用意しろ。それが条件だな」
「おせちってやつっすか?」
「そこまで堅苦しくなくていいわ。酒の肴程度で」
「頑張って用意するっす!」
菅原は急に機嫌よくスマホを弄り始めた。
まあ、いいか。菅原のそんな姿を見て、橋下はひと安心してデスクの整理を再開させた。
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