ジャン・ヴァルジャンと銀食器

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ジャン・ヴァルジャンと銀食器

 はじめに断っておきますが、私はキリスト教関係者ではありません。信仰もしていませんし、どちらかというと某宗教に対してはあまり良い印象を持っていません。とはいえ、キリスト教では事ある毎に「愛」を持ち出します。「隣人を愛せよ」と教義にも書かれるくらいですから、「愛」というものを考察する際にはとても良い参考になると思います。  フランス革命を題材とした名作「レ・ミゼラブル」も宗教色が強い作品です。私は映画のものしか観たことはありませんが、確か冒頭の方にこんなシーンがあったと記憶しています。  「レ・ミゼラブル」の冒頭、逃走する主人公ジャン・ヴァルジャンは教会に逃げ込みます。そこで司教から施しを受け、食事にありつきます。その後、ジャン・ヴァルジャンは恩ある教会の銀食器を盗もうとします。  ところがそこを司教に見咎められます。逃げ込んできたところに食事を出し、にもかかわらず盗みを働こうというジャン・ヴァルジャンに、司教はこう言います。「それらは私があなたに差し上げたものです。どうぞ持って行きなさい」  もしかしたら詳細は違うかもしれませんが、大体こんな感じの流れだったと思います。この時、司教は「隣人を愛せよ」という教えに従って行動したのでしょう。隣人とは同じキリスト教徒のことを指します。同じ国に住み、同じ人種であるジャン・ヴァルジャンを隣人として愛し、その証拠に盗みを黙認して、寧ろ施しとして差し出すことにしたのでしょう。  このエピソードから「愛」というものを説明するならば、「特定の対象への自発的な利他的行動を伴う心的現象」とでも言いましょうか。つまりは、誰かのために何かをしてしまう心の状態、ということです。  この利他的行動というものは「愛」を表現する上でとても重要なものです。少なくとも私はそう考えています。  ここで話をぶり返しますが、「恋」の場合は利他的行動は必ずしも伴いません。仮に恋人、若しくは意中の相手へプレゼントを贈るということがあったとします。しかしこの場合のプレゼントは、あくまで「相手に好かれる」あるいは「相手に嫌われない」ためにする行為です。意中の相手に見栄を張ったり、格好をつけてみたり等、アピールをする場合もそうです。自分の欠点はひた隠し、相手に気に入られるために行動します。  対して「愛」の場合は、相手に嫌われることも厭いません。相手のことを考えて注意する、叱る、あるいはあえて手助けをしない等、例え相手を不機嫌にすることと分かっていても、相手のためになるならば実行します。諺としては「可愛い子には旅をさせよ」が該当するでしょうか。どれだけ可愛くて大切な子であったとしても、その子の将来を考えるならば少しでも親元を離れ経験を積ませた方が良い、と言うことですね。  他にも、例えば「大岡裁き」が挙げられると思います。あるいは賢王ソロモンの逸話でもいいですね。どちらも似たような話ですが、一人の子どもの親権を二人の母親が争っています。そこで、二人にそれぞれ子どもの右手と左手(ソロモン王の場合は上半身と下半身だったと思います)を掴ませ、引っ張り合いをさせて勝った方に親権があると嘯きます。すると二人の母親は引っ張り合いを始めますが、子どもからしたらたまったものではありません。体を引き裂かれるような痛みに泣き出します。この時、先に手を離した母親にこそ親権があるとして納得させる、と言うお話です。  これもまた、自身の権利よりも子どものことを思う方に愛情がある、ということは一目瞭然でしょう。  つまり「愛」とは「愛する誰かの為になると考えて、自身の損得を度外視した行為」によって具現化すると言えます。とはいえ、これはあくまで「愛」の一部分の要素であり、それが全てなどとは言えません。ただ少なくもそういう点に注目することで、どれだけ愛しているのか、あるいは愛されているのかが分かると思います。  しかし、この性質のせいで弊害も起きます。それが「親の心子知らず」問題です。
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