親の心子知らず

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親の心子知らず

 突然ですが、私は「鋼の錬金術師」という漫画が好きです。何故急にそんなことを口走ったかというと、この漫画の中に(くだん)の問題が描かれていることを思い出したからです。  漫画の主人公はエドワード。彼には弟が一人いますが、幼い頃その弟を泣かせてしまいます。そこを母親に見られて叱られます。その時に彼は「お母さんは自分のことなんか嫌いなんだ」と臍を曲げてしまいます。幼少期にはあるあるな光景という気がしますが、ここに父親が登場します。父親はトイレに入っていましたが、その扉の前にエドワードがやってきて上のようなことを口にします。そこで父親はバケツに水を入れて持ってきて、それをエドワードに持っているように言いつけます。少し目を離して後、確認してみるとエドワードはバケツを下ろして膝を抱えていました。聞いてみると重たくて持っていられないと言います。すると父親は言いました。「今持たせたのは、お前が赤ん坊の頃の体重と同じ重さのものだ。お前はすぐ諦めてしまったけど、母さんはそれをずっとお腹に入れていたんだ。それなのにお前はまだ、母さんがお前のことを嫌いだと思うのか」  カッコいいお父さんですね。お父さんがちゃんとお父さんをしています。“良いお父さん”(もしかして普通?)に弱い私としては、このエピソードだけで好感度鰻登りです。  さて、お父さんことヴァン・ホーエンハイムさんを褒めちぎるのはこれくらいにして、本題に戻ります。上のエピソードは「親の心子知らず」問題の典型と言えるでしょう。現実世界のそれはもっとエゲツナイものですが、その度合いはひとまず置いておきます。  では何故、このような悲しい問題が生じるのか、と言えばそれは(ひとえ)に親子間の愛の大きさに差があり、且つその大きさを感知できないからです。  前項にて、「愛とは利他的行動が伴う」と論じました。ここで親と子、それぞれの利他的行動の数を確認してみましょう。親という人間は生まれた瞬間から親な訳はなく、子どもが生まれて初めて親になります(母親の場合はもっと早い段階でなりますが)。子どもは手がかかります。赤ん坊の期間だけを例に挙げてもおむつ替え、授乳に食事、お風呂に夜泣き、更にはすぐぐずるため何度も抱き上げあやす必要があるなどなど。それらを行う間、親となった人は自身の為の時間を持てません。全て赤ん坊の為に使用することを半ば強制されます。  ここに挙げたものは完全に利他的行動です。これらの行動には赤ん坊によく思われたいだとか、その方が自分の利益に繋がるからという考えは、入り込む隙間もないのです。ただただ赤ん坊の為、その子が死なないように、すくすく育ってくれるようにと願っての行動です。  さて、親の献身はまだまだ続きます。赤ん坊は大きくなり幼稚園や小学校、さらにその先へと進んでいきます。その間親はその子のためにご飯を作り洗濯をし、弁当を用意し体操服に刺繍をし、学費や給食費を工面し、誕生日やクリスマスにはプレゼントまで用意します。まだまだ書ききれないほどの行為を、毎日こつこつ、何年も何年もやり続けます。  対して子どもの方はどうでしょう。残念ながら目立った利他的行動は思い付きません。強いて挙げるならば、気まぐれに発行する肩叩き券や、これお母さん、と言って描く絵や、何かの工作物のプレゼントなどでしょうか。ただそれらの効果は絶大で、人によっては涙を流して喜ぶ親もいることでしょう。しかしながら、親の行う献身と比較すると雲泥の差があります。  そんな子らもやがて反抗期を迎え、思春期には人の神経を逆撫でするような生意気な言動が増え始めます。彼等彼女等が生まれた瞬間からこつこつと利他的行動を取ってきた親に対し、「嫌い」だとか「鬱陶しい」だとか、果ては「自分は大事にされていない」などと口走るようになります。何故こういう事になるかと言えば、それは「愛」が目に見えないからです。  急に話が変わりますが、例えば誰かの家に遊びに行くとします。あるいは営業の仕事をされている方であれば、どこかの企業を訪問するということでも構いません。とにかく何処かに訪問した際、大抵お茶が差し出されます。  さて、そういうわけでAさんの家を訪問したとします。するとAさんは例によって「お茶でもどうぞ」と言ってくれます。これはどうもと頭を下げると、目の前のテーブルにドンッと何かが置かれました。見てみると1Lの牛乳パックが何食わぬ顔で置かれていて、更にはストローまで差してあります。コップなどはありません。これは何ですか、と目で訴えると、Aさんはどうぞ、開封したばかりのものです、と言いました。  この状況をどう思われるでしょうか。  「いや、お茶って言ったよね?牛乳?訪問客に牛乳出す?ここは牧場ですか?そもそも、何でコップもないの?これを飲めと?多くない?ふざけているの?てか何この例文は。意味が分からないんだけど」というところでしょうか。  百歩譲って牛乳でも良いとして、出された量が多すぎると思われた方は普通だと思います。では何故、それを多いと判断できたかと言えば、それは目に見えるから、そして牛乳を飲んだことがあるからです。  更に言えば、これはただ文章として書かれた描写でしかありません。目に見えているわけでもなく、それでも多いと判断できるのは牛乳に対する経験があるからです。コップ一杯の、または紙パックや瓶詰めの牛乳を目で見て、飲んだことがあるから、1Lの牛乳パックを出されると多いと判断できるです。  では本文に戻ります。さて「愛」の大きさはどうやって知ることができるのでしょう。当たり前ですが「愛」は目には見えません。その状態で果たして自分がどれだけ愛されているかということをどうすれば知ることが出来るのか。目に見えないならば残されたものは経験だけです。つまり、「愛」の大きさを知るには、誰かを「愛した」という経験が必要なのです。  「親の心子知らず」と言いますが、「親にならないと親の気持ちは分からない」とも言います。これをここまで記したことを総合して考えるならば、実に理に適ったことです。  子どもは利他的行動をあまり取らない。それが親になった途端半強制的に取らされる。その時やっと、自らに向けて行われていた地道な献身の、その総量の大きさに気付くのです。
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