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メインを食べ終わり、デザートを頼もうかどうしようかと迷っていた時。僕は急に催してしまい、トイレに立ったのだった。幸いこのレストランにはトイレが併設されており、先客も一人だけだった。今時の子供である僕は、男子トイレでも絶対個室を使うことにしている。個室が空くのを待っていたので少しだけ時間を使ってしまったのだった。
ーーなんでレストランに来るとトイレ行きたくなるんだろうなあ。わからん。
そんなことを考えながら自分達の席に戻る折、若い女性二人組が店員に案内されていくのとすれ違った。トイレかなと思ったら、彼女達は何故か店の奥に連れて行かれている。何かトラブルでもあったのかな、と僕は首を傾げた。
「おまたせ、兄ちゃん。デザートどうする?」
僕は今までと同じノリで兄に話しかける。すると兄は鞄を肩にかけて、遅い、と低く呻いた。
「空矢、帰るぞ」
「え?デザートは」
「そんなもの頼んでる場合じゃない。後で全部説明する、会計してさっさと出るぞ」
「え、え?」
急にどうしたと言うのだろう。僕はこの場で理由を知りたかったが、よく見れば兄の顔は今まで見たことがないほど真っ青で、暑くもないのに汗を掻いている。何かあったのだ、と悟るには十分だった。
兄は焦ったようにカウンターに会計用レシートを叩きつけ、呼び出しボタンを連打した。何事かと飛んできた店員に、千円札を二枚渡して言う。
「お釣りもレシートもいらないんで」
「お、お客様?」
「行くぞ、空矢」
「ちょ、兄ちゃん?兄ちゃん?」
彼は有無を言わさず僕の腕を引っ張って店から出た。確かに二千円で、お会計には十分足りるだろう。だとしても、お釣りも受け取らないなんて几帳面な兄ちゃんらしくもない。
「どうしたんだよ兄ちゃん!様子がおかしいよ!?」
無言で近くの公園まで引っ張って来られたところで、僕はついに耐えきれなくなって兄に問い質した。すると兄はベンチに座り込み、がくがくと震え始めたのである。
「た、助かったよな?助かったよな俺達?ヨモツヘグイじゃないよな?お釣りも受け取らなかったし、チップ代わりになるよな?」
「に、兄ちゃん?」
「お前がトイレに行ってすぐ、うしろのビジネスマンコンビが注文して、声がでかかったから全部聞こえたんだ」
普段の彼らしからぬ、怯えきった声。
「ハンバーグ、頼んでた。その時に“特別な肉で”って付け加えてたんだ。メスが柔らかくていいって」
「メス?」
「そしたら……レストランの中にいた、女の子二人が店の奥に連れて行かれて……」
さっきの若い女性たちだ、と僕は目を見開いた。
「そしたら、ビジネスマンの男が笑ってたんだ。“コロナで制限されてた外食が解禁されたのは、人間も我々も同じですな”って。“人間が迷い込んできてくれるからこの店はいい”って。これ、これ……どういう意味だと思う?」
どういう意味か、なんて。
正直僕も、考えたくなかった。だってそうだろう。もし、彼らが“メス”ではなく“オス”と頼んでいたら、もしかしたら連れて行かれていたのは――。
「俺達が食べた料理、普通の料理だよな?そうだよな?」
「兄ちゃん……」
僕は何も言えなかった。言えるはずが、なかった。
血の気が引いていたのは僕も同じだったから。
あの店がなんだったのか、今でもわかっていない。ただ一つ確かなことは、後日路地を除いたところ、袋小路でさえなかったということ。あの店は、影も形もなくなっていたことだけだ。
この話を聞いた人も、どうか気をつけてほしい。
我慢が解禁されるのは、人間だけではないのだから、と。
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