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ストリートミュージシャンに憧れた。
誰にも期待されていないのに路上に立ち、誰も聴いていないのに大声で歌う。
そんな途方もなく無駄で、無力で、自惚れだけはあるような、損得の勘定を超えた存在に私はどうしようもなく惹かれるのだ。
「おかえり優斗」
皺だらけのギターバッグを肩にかついだ優斗が扉から姿を見せた。朝見たときと変わらないボサボサの髪を揺らしている。
彼はまるで新月のようだ。
確かにそこに浮かんでいるのに、誰の目にも止まらない。それはなんて気高く美しいだろう。
「……あれ。なにそれ」
見慣れた彼が持っている見慣れないものを見つけて私は尋ねる。
「ああいや、ちょっと」
ケーキ、と優斗は少し照れくさそうに左手のコンビニ袋を持ち上げた。かさり、と乾いた音が鳴る。お金のないはずの彼がどうして。
「今日いつものとこで歌ってたら、知らないおっさんに話しかけられてさ」
私が顛末を訊く前に、彼は興奮気味に話し始めた。
どうやら彼が路上ライブをしていたところ、素通りしていく人々の中で一人だけ足を止めてくれた人がいたらしい。
その人は、はじめはじっと彼のほうを見ているだけだったのだが、しばらくすると近寄って声をかけてきたという。
「最初は誰かと思ったんだけど、話聞いてみたらそのおっさん音楽プロダクションの社長らしくて」
エアコンの稼働音が大きくなる。
扉が開いて部屋が冷えたからか、彼の話の続きを少しでも聞こえにくくしてくれているのだろうか。
「プロにならないか、ってさ」
嬉しそうに口元を歪める彼に、私はなんと返しただろう。わからない。少し息が苦しい。
エアコンの風がカーテンを揺らす。隙間から漏れた街灯が彼の左腕と白いビニール袋を照らした。
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