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こんな時間に何だろう?
画面に浮かび上がる『椿』の文字に、徹平の胸が大きく波打つ。懐かしさとともに蘇る胸の痛みを、抑えきれない高揚感が呑み込んだ。
素早くベッドから抜け出すと、廊下へと続くドアを開けながら、徹平は通話ボタンをタップした。
「もしもし?」
「てっちゃん?」
間髪入れずに漏れ出す愛しい声が、徹平の耳朶に甘い痺れをもたらす。
「義姉さん……」
狭い廊下の壁にもたれ、徹平は掠れた声を吐息まじりに吐き出した。
「ごめんね。こんな時間に」
寝てた? と義姉の椿が矢継ぎ早に聞いてくる。いや、と小さく答えたあと、「どうした? なんかあった?」受話口を右手で囲み、徹平は小声で聞き返した。
「あのね、恭介くんが」
「兄ちゃん?」
恭介は、徹平の五つ上の兄で、椿の夫にあたる。
「怪我を」
「怪我?」
「意識が……」
声が途切れる。送話口の向こうから、椿の震える息づかいが漏れてきた。
「義姉さん?」
問いかけるも、返事はない。
「おいっ! どうしたんだよっ? 一体なにが……っ」
「テツくん?」
徹平のただならぬ様子に良からぬ何かを感じたのか、陽菜が遠慮がちにドアの隙間から顔を覗かせた。
「義姉さんっ? 義姉さんっ?」
返事はない。
「すぐ行く」
通話を切ると徹平は、「ごめん」と陽菜を一瞥し、手早く出かける支度をした。
高速を飛ばせば、三時間で着けるだろう。「明るくなってからにしたら?」と言う陽菜の言葉を背中で冷たく跳ね返し、徹平は急いでバイクにまたがった。
湿気を含んだ暗闇が、徹平の身体に重く苦しくのしかかる。不安な気持ちをかき消すように、徹平は大きくアクセルをふかした。
「気をつけて」
祈るような陽菜の声が、夜の闇に吸い込まれ、跡形もなく消えていった。
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