そばにいて

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そばにいて

 時間は夕刻まであっという間に過ぎ、片付けを終えた俺たちは解散ムードに押されて玄関に立った。 「じゃあね、楓くん。あんまり不摂生ばっかしてちゃダメだよ」  美月さんが楓を抱きしめてからにっこり笑う。留佳さんは相変わらず無口だったが、楓の頭にポンと手を置いてから美月さんを連れて先に玄関を出た。 「陸…」 「ん?」  スニーカーの紐を結び直す俺に楓がそっと呼びかける。  だがしばらく待っても、背中越しに聞こえた声はそれ以上続くことはなかった。  靴を履き終えた俺は立ち上がりながらドアノブに手をかけた。 「長々とお邪魔してごめん。じゃあ、また月曜日に」 「うん」  玄関先で見送る楓は(うつむ)いていて顔がよく見えない。  錆びで軋む扉はぱたんと閉まり、俺と楓を静かに隔てた。  足元を冷たい風が通り過ぎる。  刻一刻と移りゆく季節は、冬の吐息を少しづつ引き寄せているようだ。  鉄の階段をカンカンと降りると、車に乗り込んだ美月さんが助手席からこっちに手を振っていた。 「陸くんも気をつけて帰ってね!」 「はい。今日はご馳走様でした」 「今度はすき焼きにするから、また一緒に食べましょうね。じゃあね!」  最後まで朗らかな人を乗せて、黒い車が夕日の中に遠く小さく溶けていく。  俺はそれを見送りながら橙色に染まる歩道を歩いた。    今日の出来事は完全に想定外だったけれど、楓にも温かな人たちがいてよかった。  無愛想な楓の頬に差した赤みは、確かな「嬉しい」の証拠だから。  …でも、あまり笑顔はなかった気がする。 「はぁ。寒…」  一歩、一歩。楓から離れていく。  吐いた息は白く濁り、形を崩して空へ流れた。  昼間は心地よい暖かさでも、夜になればまた一気に気温も下がるのだろう。  誰もいなくなった、部屋のように。 ——陸…。    背中で聞いた、水を一滴だけ落としたような楓の声。  肌寒い不安が胸をよぎり足が止まった。  俺は、どうして最後にうつむいた楓の顔をちゃんと見なかったのだろう。  何か…あそこで大切な何かを見落としたんじゃないか?  吹き抜けた突風が木々を大きくしならせながら愚か者を責め立てる。  さっきまで背後に伸びていた長い影を踏みながら足が勝手に動き出した。  風に押されるように、少しずつ速く、速く。 「楓…!」  俺は歩道に焼きついた自分の足跡の上を全力で駆け戻った。
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