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次の瞬間、アンセルは外にいた。
空は青く、太陽はまだ高い位置にある。
周りには多くの若者が行き交っていた。
彼らはアンセルよりすこし年上のように見えた。
たいていは、アンセルと同じ制服を着ている。
だからこの衣装なのか、と思う。もしもすがたを見られても浮かないようにだ。
むこうには立派な建物が見えた。
大きな時計がついていて、校舎のようだ。
アンセルは、どこかの学校のキャンパスに出たようだった。構内には緑も多い。
往来するこの時代の彼らにはアンセルのすがたが見えないので、ぶつかりそうになってあわてて避けた。
ほんとうにぶつからないように、端に寄る。
“落し物”はどこにあるのだろうか。
護符で座標を確認すると、本来出るはずの場所よりもすこしズレた場所に出てしまったようだった。
ほんとうならば、その“落し物”のある場所ぴったりに出るはずだったのに。
とはいえ、そう遠い場所でもない。
あたりを見回すと、構内の案内図らしいものが見えた。
誰かにぶつからないように慎重に、そちらまで向かう。
案内図を見ると、学校の敷地はとても広い。
座標があう場所へのルートをさがす。
「ええと、今はここで、座標はこの研究室?かな? 道は──」
指をさしながらたどってみる。
「こっちの通路だ」
「あ、ほんとだありがとう────」
反射的に礼を言いかけてから、ハッとして声のしたとなりをふり向いた。
そこにはアンセルよりも頭半分くらい背の低い男子生徒がいて、こちらを見ていた。
どこか見おぼえのあるような顔だ。
濃いブラウンの髪と勝気な瞳。
まるで時が止まったような一瞬。
「おと、うさん」
「ん?」
「いえ、なんでも……て、あれ?」
「どうかしたか?」
それを聞きたいのはこちらのほうだ、と思った。
護符の力でこちらのすがたは見えないはずなのに、彼には完全にアンセルのすがたが見えている。
「え、と…………ごめんなさい!」
アンセルは全力で逃げ出した。
しばらく走って見つけた建物の陰にしゃがみこんで、身を隠した。
息を整える。
走っている間も他にアンセルのすがたが見える人間はいないようだった。
つまり、護符の不具合というわけではないのかもしれない。
じゃあなんで、彼には見えたのだろう。
っていうかあれは、
「お父さん──」
若いころの父だ。
自分より背も低いし、声も違う。
でも父だ。アンセルにはわかった。
胸の鼓動がはやいのは走ったからだけではないかもしれない。
困った。
どうしよう。
この時代に人間にすがたを見られてしまった。
しかも過去の父だ。
その場合どうしたらいいのかは、知らなかった。
「やあ、ベイビー」
「わっ、びっくりした」
いつのまにかとなりに小柄な女子が座っていた。
肩ほどの灰色の髪に蒼い瞳の、美少女然としたすがただ。
「ママ」
「久しぶりかな、ハニー?」
「はい。お久しぶりです」
ヘンリエッタ・ユキヲ・黒生。正真正銘の時の魔女にして、アンセルの生みの母親だった。
「あの、僕、初任務で来たんですけど」
「ん」
「さっき、この時代の人間にすがたを見られてしまったんです。しかも、」
「ああ。おまえの父親だろう」
「知ってるんですか?」
「だから来たんだ」
「護符の不具合でしょうか? 僕、どうすればいいですか?」
「もちろん、不具合ではない」
「でも目的に場所にも出られなかったし」
「まれにいるのだ。魔法の効果が薄く、見えてしまうやつが」
「はあ」
「最初に聞かされてはいないかもしれないが、実はそういうやつを協力者として囲っている魔女も多い。おまえも、あいつを協力者にしておけば仕事がしやすいだろう」
「僕のこと、話していいんですか?」
「最低限にな」
「はい。というか、どうせここにいるならあなたが目的のものを拾いに行く方が早いのでは?」
「ぼくはここにはいない」
「え?」
「見つけた」
母とは違う方向からの声がして思わずふり返ると、そこには先ほど出会ったばかりの少年がいた。
助けを求めようと横を見たが、母のすがたはすでにない。
母はこの時代の父には出会ってはいけないのかもしれない、と思う。
つまりこれからはひとりで対処しなければならない。
「大丈夫か?」
彼はかがみこむようにして問うた。
「え?」
「具合でも悪いのかと」
「いえ。大丈夫です。心配させてしまってすみません」
「いや。問題ないならいいんだ」
「お手数をおかけしました」
「立てるか?」
と、手をさしだす。
「はい──」
アンセルはおそるおそるその手をとった。
自分の時代の父のものよりも、ちいさな手。
しかし華奢というわけではなく、力強く引き上げられた。
「ありがとうございます」
立ち上がると、彼より自分の目線の方が高いのがよくわかった。
身長は、ママとおなじくらいかなと思う。
不思議な感じがした。でも、かわいい。なんだかほんわかとしてしまう。
「見ない顔だな。編入生か?」
「ええと、違います……?」
「なぜ疑問形」
「いろいろありまして」
「アカデミーの学生にしては若そうだな」
「それはあなたもです」
「俺は飛び級。おまえは違うのか?」
「はい。その、すこしお時間いただいてもいいでしょうか────九葉キースさん」
見知らぬ少年に名前を呼ばれて、彼はすこし驚いたような顔をした。
「僕は、九葉アンセル。未来から来たあなたの息子です」
「時間遡行。時の魔女」
「はい」
「しかも俺の息子」
「はい」
「にわかには信じがたい話だが」
「はい」
「おまえのすがたが俺以外には見えていないのはたしかなようだし」
事情を説明がてら、アンセルのすがたが他の人間には見えていないことは証明していた。
「まあ、一応事実だと仮定して話を進めよう」
「ありがとうございます」
「その制服は?」
「任務のために魔女が用意したようです。たぶん、誰かに見えてしまってもここで目立たないように」
「それでもすこし目立つかもな。アカデミーの生徒にはやや若い顔だ」
「はい」
「いくつだ?」
「今年で十七歳です」
「そうか」
「あの、あなたが今おいくつか聞いてもいいですか?」
「十四」
「わあ。若い」
「おまえとは三つしか違わない」
「そうですね。不思議な感じです」
そう言ったアンセルが、彼の父親を思っているのはキースにもわかった。
なんとなくきまりが悪い。
「ところで、おまえが俺の未来の息子だっていうのは、その、魔女の母親の言う“最低限”に含まれるのか?」
「?」
「未来を変えてしまう可能性のあるわりと重大な情報だと思えるんだが」
「ええと、うーん、でも、お父さんはお父さんだから。そうじゃないふりはできません」
「フウン?」
「ごめ、んなさい。いい気分じゃないですよね……無思慮でした」
「おまえを責めてるわけじゃない。怒ってもない」
「はい」
「そもそも、まだ全面的に信じたわけじゃないしな」
「はい。そうですね」
キースの言葉に、アンセルはどこかうれしそうにふふと笑った。
その笑顔はとてもかわいかった。すくなくとも現時点では年上の男に、妙な話だとも思うけれど。
ほおに触れる。
アンセルはすこしも抵抗するような様子は見せなかった。キースをまったく警戒しないのだ。
「おまえは母親似?」
「はい。顔はたぶん、母と似ています」
「そうか。じゃあすくなくとも、俺の未来の息子の母親は俺好みの顔をしているみたいだ」
「────そうですか」
アンセルは、はにかむように微笑んだ。
暗に顔が好みと言われたのだ。
うれしかった。母が与えてくれたものに感謝したい。
この彼の気をひける顔と、時の魔女の遺伝子。
「で、なにを拾うって?」
「魔女の情報によると、このくらいの石?みたいです。虹色の」
アンセルはそう言いながら、親指と人差し指で円を作る。
「虹色の石?」
「ガラスみたいな質感で、厳密には石ではないのかもしれませんが」
「魔女の道具かなにかか?」
「わかりません。僕は魔女ではないので、詳しいことはさっぱりなんです。すみません」
「時の魔女、じゃなかったのか?」
「時の魔女の遺伝子を保有しているので時渡りができるというだけで、僕はただの人間です。魔法も使えませんしね。母は正真正銘の時の魔女なのですが、僕はその力は受け継がなかったし、その母も、両親のどちらも魔女ではない先祖返りだそうですから」
「へえ?」
「だから、石を拾って戻るだけのはずだったのですが、僕が到着した座標がなぜかすこしズレていたんです。護符の不具合ではないようなんですが」
「その本来の座標が、さっき案内図で見ていた研究室か」
「はい。そのあたりにその石があるはずなんです。なので、もしよければそこまで案内していただけたら助かります」
「あそこは、むずかしいな」
「え?」
「あそこは厳重警備の研究室で、入れる人間は限られている。もちろん、まだ入学したばかりの俺には入れない」
「そう、なんですか」
「そもそもなぜその座標に出られなかったのか、という問題もある」
「はい──」
「図書室へ行こう」
「え?」
図書室は人もまばらで、とても静かだった。
キースは中でも特に奥まったところにある書架へと向かい、ぶ厚い立派な本を一冊取り出した。
近くのテーブルの上に広げる。
「これだ」
と、トーンを落とした声で言う。
「なんですか?」
「これはアカデミーのなりたちについての本」
「はい」
「ここはもともとセダリー教会の寺院のあった土地で、その上に今のアカデミーが建築されている。らしい」
「教会──」
「見ろ。ここが俺たちの会った掲示板で、校舎はこのへん、あの研究室はもともと本堂のあった場所にある」
キースは、開いたページを指した。
のぞきこむとその指の先には、教会の俯瞰図のような画があって、すべての構造がその一番奥の場を守るようなかたちに配置されていた。
そのとなりに今のアカデミーの地図を持ってきて広げるとたしかに、ふたつの図はそうやって重なるように見えた。
「まだこの教会を守るための配置がそこそこ活きているんだろう。魔女と教会の関係については詳しく知らないが、おそらく、おまえが座標の場所へうまく到着できなかったのはそのせいじゃないか。というのが今の時点での俺の推測。なにかはわからんが、なにかが干渉したんだ。おまえの母親が言ったとおり、護符の不具合ではないのならな」
「なるほど」
「そしてもしそれが正しいとなると、おまえの任務はすこしだけ面倒なことになる」
「な、なんでですか?」
「その“落し物”のある研究室は、さっきも言ったとおり厳重警備の研究室で、生体認証が導入されているんだ。だから登録者以外の人間は基本的には入れない」
「はい」
「もちろんマスターキーは別にあるだろうが、防犯カメラもある」
「僕は、たぶん防犯カメラにも映らないと思いますが」
「かもしれない。だが、そこで教会の布陣だ」
「?」
「おまえが目的の座標に到着できなかった原因がそれだとすると、あそこは魔女の力──すくなくともその護符の力は及ばない場所ということになる」
「あ」
「おそらく、すがたを消したまま部屋へ入ることはできない」
「はい」
「すがたさえ見えなければ生体認証を越えられる人間がドアを開けたときにくっついて勝手に中へ入ることのできる可能性があるし、防犯カメラさえなければマスターキーを勝手に拝借して中に入ることも可能かもしれない」
「でも、すがたを消したままあの部屋へ近づけないとなれば誰かにくっついていくこともできないし、防犯カメラがあるのではすがたが見えても見えなくても結局人知れずマスターキーで入ることもできない」
「そういうことだ」
「意外と、むずかしい……」
「そもそも、厳重警備の研究室からものがなくなったとなれば大騒ぎだ。大きく歴史が変わる騒動になってしまうかもしれない。それじゃ本末転倒だろう?」
「そっか────わりと詰みですか?」
「いや。べつに詰みではない」
キースはあっけらかんと言った。今までの話の流れからはまったく簡単ではない印象を受けていたアンセルはすこし驚く。
「え、そうなんですか」
「最悪ハッキングという手もあるが」
「あるんですか、ハッキングという手」
「なくはない」
「そうかぁ」
「まあ今回は必要ないけどな」
「それは、よかったです」
「俺は、おまえが拾いに来たものがなにかをたぶん知っている」
「はい」
「学部内のコンペがある」
「はい……?」
「その優勝者に贈られるはずのトロフィー、というか盾のようなかたちだけれども、虹色の石というのはたぶんそれについている飾りのことだと思う」
「はあ」
「研究用の重要ななんらか、というわけではない。研究室に置かれているのも、ただ担当の教授の部屋があそこにあるから、というていどの理由だろう」
「はい」
「つまり、ずっと厳重警備の研究室の中にある、というわけではないんだ。外に出るときがある」
「あ、コンペの表彰式?のとき」
「そういうこと。それを待てばいいんだ。その後は、優勝者の寮の部屋に適当に置かれるだけだろうからな。飾りがひとつなくなってもそれほど大騒ぎにはならないだろう。毎年使うから来年には返還しなくてはいけないもの、というわけでもない。だから、時間さえかければそんなにむずかしくない」
「魔法の力の及ばないかもしれない陣のど真ん中にある厳重警備の研究室に忍び込むより、学生寮の部屋に忍び込むほうがずっと簡単。ということですね」
「場合によっては忍び込む必要もない」
「?」
「俺が勝てばいい」
「あ。あなたも出場者なんですね」
「基本うちの学部全員参加だからな。そして、勝つつもりではいる」
「そっか。そうしたら本当に簡単です」
「発表会と表彰式までもうすこし日があるから、ちょっと面倒ではあるけどな」
「なるほど。つまり僕はすこし早く来すぎたんですね」
「まあ結果としてはそうなる」
「そっか。じゃあ、出直す?のがいいのかな? でも出直せるのかどうかわらないな」
「ちなみにトロフィーが外へ出るまで、最長であと八日だ」
「ああ、そうなんだ。ここに残るのも一度戻るのも微妙な時間ですね」
一週間強。やはりいったん戻って魔女に相談するのがいいのだろうか。
“現在”の父も、無理をせず戻ってこいと言っていた。
ここで一週間以上ものあいだ時間をつぶすすべもない。
待てないこともなさそうだが、ただ待つには地味に長い時間だ。
待つことにするなら、野宿になるのだろうか。護符のちからで食事や睡眠の心配はないようだけれど、野宿などしたことはないし、不安ではある。
やはり戻るのがいいのかもしれない。と思い始めたところ──
「こちらで行くあてはあるのか?」
「ないです。なんていうか、着の身着のまま?なので」
「そうか」
「はい」
「じゃあ、もし一週間待つなら、俺の部屋に来るといい」
「え────ええと、ご迷惑では」
「野宿とか言われたらそのほうがかなわんからな。俺の部屋、寮の部屋だからそれほど広くはないが、二人部屋にひとりだけだから、もうひとりいる余裕はある」
おとまりだ。
と、アンセルは思った。およそこの場にはふさわしくない浮かれたきもちで。
おとまり、したい。すごくしたい。
ふつうに考えたらダメなんじゃないかとは思うけれど、ちいさいお父さんともうすこし一緒にいられたらすごくうれしい。
そんなことをしていいかどうかわからないけれど、どうしてもダメなのだとしたらきっと母をむかえに来させるだとか魔女のほうがなんとかするに違いない。全体を把握しているのは魔女のほうのはずなのだ。
「来るか?」
「…………よろしくお願いします」
彼の案内にしたがって、学生寮へと向かう。
胸が高鳴る。
前を行くのはちいさな背中。ピンとしていて、かわいくてかっこいい。
あんまり楽しいとあとですごく怒られそうな気がするけど、そういうことは今は忘れていたかった。
母はともかく、他の魔女は怖いかもしれない。
母が怖かったことはない。
母とはあまり会えなかったけれど、息子にはすごく甘いと思う。
両親には大事にされてきた。
実質育ててくれた義理の母も、聡明で優しいひとだった。
怒られたら嫌だな、と思う。
でもわくわくしてしまうきもちを止められない。
父とふたりだけ、というのは、八歳のときに義母と義弟と住むようになって以来のことだ。
義母も義弟も嫌いではないけれど、そう考えるとすこしさみしいような気持ちになる。
彼らは母がつれてきた。
母は、アンセルが彼女をお母さんと呼ぶことが彼らを救うことになると言った。
「でも、よくおぼえてしましたね。あんな小さな石のこと」
「変わった色合いだと思ったんだ。たしか、外国の芸術家の作品だとかなんとかいう話だったはずだが」
「アカデミーの歴史のこともすぐ思い出していましたし、まだお若いのに、専門外のこともいろいろ知っててすごいです」
「いろいろと言うほどじゃない。自分の通う学校っていう狭い範囲の話だ」
「僕は、自分の学校の前身とか全然知りません」
「大抵はそんなものないからな。ここには珍しくあった、しかもそれが特徴的だったからひっかかってただけだよ。じゃなきゃ俺だって知らない」
「そうですか?」
「そうだよ」
「ちいさいお父さんは謙虚ですね」
「大きくなったら謙虚じゃないみたいだな」
「そんなことはありませんけど。子供のころからいろんなことをよく考えてるのだなと思って」
「おまえだってなにも考えずに生きてるってわけじゃないだろう?」
「あんまり大したことは考えてない気がします」
「そうは見えないけど」
「そうですか?」
「誠実そうだ」
「だといいなと思います」
「ところで、さすがにお父さんというのはやめてくれないか」
「そうですね。すみません。では、なんと呼びましょうか?」
「名前でいい」
「──キースさん」
「敬語でなくてもいいんだが」
「僕はこれが普通なので。気にしないでください」
「そうか」
「はい」
「では、俺はどう呼べばいい?」
「好きなようにどうぞ」
「───アニー」
「──はい」
キースの出したこたえに、アンセルはふふと笑った。
「嫌か?」
「いえ。あだ名で呼ばれるのは初めてなので、ふしぎな感じがするなと思って」
もちろん嫌ではなかった。
本当はもうすこしバカなことを考えていた。
若き父の選んだ呼び名はすこし女の子っぽくて、どこか彼女にでもなったような心地がすると思った。
そわそわして、なんだかうれしい。
思わずほおがゆるむ。
一方キースは、できれば“彼の父親”とは違う呼び方になればいいと考えていた。
アンセルという名ならばあだ名にしてもたぶんアンシーだろうと予想して、すこしズレた呼び方に決めた。
正解だったみたいでよかったと思う。
彼は思いのほかうれしそうにしてくれた。
学生寮は、大きな箱型の建物が何棟も連なるようにならんでいた。
そのうちのひとつのエントランスから中へと入る。
「どうぞ」
自室の前に到着すると、キースはそう言ってドアを開けた。
「おじゃまします」
アンセルはそれを受けて部屋の中へと入る。
入ったとたん、よく知った懐かしいようなにおいを感じた。
お父さんの部屋のにおいだ──
「どうかしたか?」
「いいえ」
彼も中に入り、ドアを閉めた。
「あちらが通常ならルームメイトがいるスペースなんだが」
そう、むかって左側を示す。
そちら側には、ただ学習机とベッドだけがあった。キースの私物がそなえられた右側とは違い、生活の様子はまるでない。
「今は誰もいない。とはいえ誰もいないから、マットレスなんかの装備品もないのだが」
「大丈夫です。今の僕は眠らなくても大丈夫なはずですし。野宿とかでないだけありがたいです」
「眠らなくても大丈夫?」
「はい。この護符の効果で、よっぽどのことがなければ傷ついたり、おなかが減ったり、眠くなったりしないそうです」
「便利なものだな」
「僕のほぼ時間は止まっている状態、だとか」
「へえ。それ、見てもいいか?」
「はい」
アンセルは応じて、素直に腕を差し出した。護符をはずすわけにはいかないので、腕ごとになる。
キースは多少面食らったが、特になにも言わず彼の手をとった。
腕をにぎられると、アンセルはすこしドキリとした。
キースはアンセルの手首ごとまわし、ためつすがめつする。
親指がたしかめるように護符をたどった。
お父さんよりも小さな手だ。
「あ」
「痛いか?」
「いえ。そうではなくて」
アンセルはすこしためらった。
「お父さんと同じところに、傷跡があるなと思って」
「ああ──」
キースの手には、親指のつけねのあたりにすこし色が変わったところがあった。
「昔、ミスして焼けたんだ」
「はい」
父は工学博士で、溶接などで危険をともなう道具も使うのだということをアンセルは知っていた。
「本当にお父さんなんだ」
「おまえがそう言ったんだろう」
「そうですね」
これからは大方の授業も終わり学内の往来が激しくなる時間なので、研究室の方へ確認に行くのは明日にすることにした。
キースもコンペティションの準備のため部屋をあける。
そこから直接、夕食のために食堂へ行く。
アンセルが特になにもできないまま待っていると、プリンを持って戻ってきた。
食事はしなくても平気だったが、そのやさしさがうれしい。
甘いものを食べると、すこしホッとした。
「そういえば、味覚はあるんだな」
「そうみたいですね。やはり感覚までなくなると行動に支障があるってことでしょうか」
「かもしれないが。痛覚もあるんだろうか?」
「触覚は、ありますけど」
「もし痛覚はあるとすると、万が一命に関わるような大怪我をしたときに、護符の力で怪我自体はしないが死ぬほど痛いので発狂するとかいう可能性があるのでは?とか考えてしまうんだが」
「ええー……怖すぎる想像です」
「うん」
「そこはこう、なんかいい感じになってると思いたいですけど」
「だといいな。魔女はそこまで信用できるのか知らんが」
「どうでしょう。でも、もとは普通の人間という魔女も多いようですからそこはフォローされていて欲しいですね。でも、この任務は本来危険な目に遭うようなものではないですし……」
「そうだな。怖がらせて悪い」
「いいえ。大丈夫です。死なないように気をつけます」
「是非そうしてくれ」
就寝時間が近づいたので、キースは風呂に入り、それからふたりは寝ることにした。
アンセルはなにもないベッドで寝ると言ったけれど、それもあんまりなのでいろいろ押し問答した結果、キースのベッドでふたりで寝ることになった。
父と一緒に寝るのは何年ぶりだろう。
ドキドキした。
すぐに眠ってしまったらしいキースが窮屈そうに身じろぐ。
やっぱりふたりで寝るにはせまいよなあと思って、アンセルはベッドから降りた。
枕元に座って、彼の寝顔を眺める。
自分よりちいさな父はかわいい。
でも近づくとやっぱり、父とおなじ表情があることがわかった。
2日目。
まんじりともできないと思っていたけれど、いつの間にか眠ってしまったらしい。
気がつくと朝だった。
部屋の明るさに目がさめる。
キースは先に起きて、着替えをしていた。
アンセルは昨夜のままベッドにもたれていたが、肩にはブランケットがかけられていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「気をつかわせたな」
「いいえ。こちらこそ」
キースが朝食のため食堂へ行く前に、今日の予定の話をした。
アンセルが人がすくないときに一応研究室のほうへ行ってみることにすると話すと、キースは校内の人通りのすくない道をマークした地図をくれた。
それから部屋の合鍵ももらう。
授業の時間になり人通りが少なくなったら、アンセルはさっそく研究室の方へむかう。
構内を歩いているうちに、なんとなく既視感のようなものを感じる気がしてきた。
難なく校舎には入れたが、研究室の手前のあたりで見えない壁のようなものにぶちあたった。
やはり先へは進めないらしい。
となると昨日キースが言ったとおり、しばらく待つしかないということか。
早々とできることがなくなり暇なので、そのまま構内をうろうろしてみることにした。
やっぱりここを知ってる気がする、と思う。
なぜなのかはどうにも思い出せない。
お昼のチャイムが鳴るのを聞くと、おなかはすいてないけれど、なんか食べたいような気持ちになった。
家からおやつとか持ってくればよかったなと思う。こんなに時間がかかるとは思わなかったかしかたがないけれど。
昼休みには人込みを避けて、教室のほうも見学に行ってみる。
しかしそちらは初めて見るような気がした。
午後は、図書館の片隅でこっそりこの学校についての本を読んでみた。
しかし特になにも収穫はなかった。
他の生徒が授業を終えて寮に戻ってくる前に、キースの部屋に戻る。
授業の時間が終わり、他の生徒たちが続々と寮に戻ってきた気配がしても、彼はなかなか戻ってこなかった。
授業は終わったようなので、コンペティションのためにがんばってるのかもしれない。ご苦労様だ。
自分は、今日はなんかすごくのんびりすごしてしまったなあと思った。
そのうちに、キースも部屋に戻ってくる。
「おかえりなさい」
「──ただいま」
キースはここへ来て以来ずっとひとりだったので、部屋に戻ったら誰かがいるというのは妙な感覚だった。
アンセルは、やはり研究室には行けなかったという話をした。
「じゃああと1週間ルームメイトだな」
そう言われたアンセルはのんきに、ルームメイトってなんかいい響きだなと思った。
3日目。
校内の掲示を発見して、コンペティションの表彰盾の見た目がすこしわかった。
たしかに、目的の石っぽいものがはまっている。
外をふらふらしているうちに唐突に気がついたけれど、このアカデミーは自分の時代の父の職場だった。
ちいさいころに父につれられて来たことがある。だから記憶にあったのだ。
昔は大人ばかりだと思っていたけれど、今は生徒がたくさんいて、それほど大人ばかりではなかったとわかる。
それでもその中でも若き父は本当に子供なので、たいへんそうだと思った。
自分がつれてきてもらったときは父がいたからなにも心配はなかったけれど、彼はひとりきりだ。
彼が部屋にある本とか読んでもいいと言ってくれたので、外から戻ってからは部屋で本を読んでいた。
アンセルにはむずかしい本だったけれど、お父さんと同じことを知れるのはうれしかった。
昼間の部屋はぽかぽかなので眠たい気がしてきて、昼寝もした。
キースさんのベッドはお父さんのにおいがした。
コンペティションの制作が大詰めのようで、キースの帰りは今日も遅かった。
すこしさみしい。けれどがんばってほしいと思った。
トロフィーことはどちらでもいいので、彼が努力が報われるといいなと思う。
ところで、キースさんはなに作ってるのだろうか。
夜はまた一緒に寝た。
ちいさい父の寝顔を眺めるのはなんだかとてもしあわせだった。
タイムスリップしてきた息子だなんていう怪しい人間にも冷静に、けれどやさしくしてくれて、やっぱりお父さんが大好きだと思う。
こんな風に学生同士として出会っていたら、きもちを伝えたり、他にもいろんなことができたりしたんだろうか──
ついそんなふうに考えてしまう。
でもそんな仮定は無意味だと知っていた。
そんなことは今までだって何度も考えた。
だからわかる。同じくらいの年齢の学生同士なら、そもそも出会いもしないだろう。こうやって彼と出会って、好きになることもない。父親でなれけば最初からなにもないのだ。
だから惜しんだりはしない。
でも、すこし楽しむくらいは許されたかった。
4日目。
アカデミーの構内には緑も多く、芝生が敷かれた場所もそこいらにあったし、いろんな樹木も植えてあった。
ふと甘いにおいがしてあたりをうかがうと、キンモクセイの木を見つけた。
オレンジのちいさな花がたくさん咲いている。
その一帯には他に誰も来ないようだったので、アンセルはしばらくそこで本を読んですごした。
「甘いにおいがする、か?」
部屋に戻ると、キースがそう言って髪に触れた。
「ええと、ああ、きんもくせい!」
「キンモクセイ?」
「アカデミーの中にはいろいろな樹があるんですね。キンモクセイもありました。いいにおいでした。今日はそこにいたんです」
「ああ、なるほど」
「はい」
「キンモクセイ、好きか?」
「はい。小さいころ、花を集めて桂花醤を作ったこともあります」
「桂花醤?」
「あれ、ご存じじゃないですか?」
「ああ」
「そっか」
アンセルは瞬いた。
「花をシロップ漬けにするんです」
「へえ」
キンモクセイのシロップ漬けは、ちいさなころに父から教わって作ったものだった。
それをまだ父自身が知らないなんて、妙な感じがする。
「父親と作った?」
「はい。そうです」
「ではそれまでに、俺も調べておかないとな」
「ふふ、お手数をおかけします」
「おまえが気に入るなら、そうしてやらないわけにはいかないだろう?」
「ん」
彼が年長者ぶってそう言うのがくすぐったかった。
「キースさん、まだ声変わりきてないですよね」
「年齢的にはおかしくないだろう?」
「ええ。いい声です」
「おまえの知る未来の俺とは違うのだろうな」
「はい。でも、そういうことじゃなくて、どちらもいいなと思います」
「褒めてくれなくても追い出したりはしないぞ」
「お世辞ではありません」
「そうか。ありがとうな」
それは、“今”よりも高い音だけれど、“今”と変わらない優しい音だった。
大好きなものがひとつ増えたようでアンセルはうれしいきもちだった。
5日目。
日中にキースが部屋に戻ると、アンセルが寝ていた。
かわいい寝顔だ。と思った。
部屋に戻ったときに誰かがいるというのはいいなと最近は密かに思っていた。
彼は、もうすこししたらいなくなってしまう存在だけれど。
しかし、それはともかく、彼は明らかに自分に気がある、と思う。
ただ父親を親しく思うような感情とは違うものを感じる。
むずがゆいようなきもちだ。
彼はきれいなひとだし、悪い気はしない。
けれど彼が好きなのは未来の自分だ。
自分の知らない自分。しかも父親だというのなら、どうしていいのかわからない。
自分が不用意に動いたせいで、時空連続体に影響を与えてしまうことははばかられる。
でも彼をかわいく思っていた。今は年上の男性相手には不適当かもしれないけれど。
若くしてアカデミーにいるので、年齢のことで嫌な目にあうこともあるけれど、彼はずっと敬意を払ってくれる。
聡明で、礼儀正しく、心やさしい。
顔も好みだ。
未来ではどういう関係なのだろうか。
未来の自分は、このきれいな少年を手に入れているのだろうか。
彼の望みが叶っていたら、あんな風に自分を見ないかもしれない。
でも、未来の自分が育てたのはたぶん、息子でありながら“花嫁”なのだろうと感じる。まあまあ変態の所業だ。
きっと簡単ではないだろう。けれどこのきれいなひとのためなら、そうするほかないのだろうと思った。
顔を近づけ、寝顔を眺める。
と、アンセルがゆるやかに目をひらいた。
至近距離にも拒絶はない。絶対的な信頼だ。血のつながりのもたらすものを感じる。
くちびるをあわせた。
「おはようお姫様」
「あ、ベッド占領してすみません」
「他に言うことはないのか?」
苦笑したキースがなんのことを言っているか、アンセルにもちゃんとわかっていた。
けれど深く考えるとパニックになりそうで、できるだけ目をそらしておきたかった。
「ええと、あの──大丈夫です。いや、ある意味大丈夫じゃないけど、大丈夫です」
「嫌なことは嫌だって言えよ」
「ああ、えと、その、嫌ではないので……」
しどろもどろに言葉をならべ、じわじわと顔をあかくするアンセルを、キースはただやさしく眺めた。
「自分を大事にしろよ」
髪を撫ぜる。
「僕は、嫌ならちゃんと、拒否できます、から」
「そうだな、おまえには分別がある」
「はい、親のしつけがよかったおかげです」
そう言ったアンセルはどこか誇らしげだった。
「──勝手なことをして悪かった」
「いいえ。あの、なんで……したんですか? いや、理由はいいんですけど、僕があまりにもの欲しそうにしてたとかそういう圧力があったりしたら申し訳ない、な、って……」
「たとえあったとしても、俺はそんなものに負けてしたくないことはしない。それを言うならむしろ、俺の方が仮にも宿主だから拒絶しづらいとかあるもんじゃないか?」
「僕は、ここを追い出されたら困るわけじゃありませんから。利害関係はありません」
「そうか」
「はい」
「俺も、おまえが出て行っても困らないから利害関係はないよ」
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、ええと、」
「かわいい顔で寝てたから」
「そっかあ……」
はにかむ顔は幼子よりも愛らしく、今この瞬間の自分がもたらしたものなのがさらにキースの気をよくさせた。
アンセルは、夕方ごろには気をつけて外に出て、キースが制作をしているところをのぞきに行ってみた。
彼はアンセルに気づいてもなにも言わなかった。
他の生徒もたくさんいたからだろう。
なので会話をしたりはしなかったけれど、がんばっている彼のすがたをずっと眺めていた。
6日目。
本日は、コンペティションの作品提出締め切り日だった。
だからアンセルは、キースは今日はずっとそれにかかりきりなのだろうと想像していたのだが、当のキースは昨日には提出していたらしい。
なので今日はもうなにもするべきことはない。
そして今日は、学校が休みの日だった。
「外へ行くか」
「はい?」
「今日は休みだし、せっかくだから学校の外へ行きたくないかと思って」
「外に出られるんですか」
「学生も別に閉じ込められているわけじゃないからな。そんなに必要がないから出ないだけで」
「そっか。今日は必要が?」
「いや、気分転換に」
「僕の? ご迷惑では」
「俺の気分転換でもある」
「そうですか。では、ぜひ」
ふたりはアカデミーの方へはむかわず、寮の出入り口から外へ出た。
学校の敷地から出ると、特になにがあるわけではないものの、なんとなく開放感を感じる気がした。
「どちらへ?」
「欲しいものはあるか?」
「僕は特にありません」
「じゃあとりあえず本屋へ」
「はい」
彼と並んで舗装路を歩く。
アカデミーの周囲はほぼ住宅街で、人けはそれほど多くない。
チラホラと出くわすのも、やはりアカデミーの関係者が多いようだ。
みんな休みで外へ出ているのだろう。
周囲を見ながら歩いていると、アンセルはすこしずつ遅れ出す。
あ、と思ったところで、キースが振り返った。
駆け寄る。
「すみません。つい周りを見てしまいました」
「気になるものでもあったか?」
「いえ。ただ見慣れないもので。あと、うちの周辺よりも自然が多い気がして」
「そうか。とりあえず、はぐれないでくれよ」
「はい」
「──そうだな」
キースは手をさし出した。
アンセルはちいさく息を呑み、それからおずおずと手をのばしてその指をとった。
きゅっと握られて、また進む。
そのうち、商店街のようなところに出る。
誰かと手をつなぐなんて何年ぶりだろう。ドキドキする。
それから、前にもこんなことがあった気がした。
お父さんに手を引かれて歩いた。
まさに、この景色を知っている。
いつぞやお仕事の見学に来たときに通ったのだろう。
ああ、あのお菓子屋さんは父がおやつを買ってくれたところだ。
「アニー」
「すみません、よそ見して」
「謝らなくていいけど、転ぶなよ」
手をつないでいるので、ふたりとも自由度が低かった。
「はい」
アンセルは、ふふと微笑む。
「なに」
「前にも言われたことあるなあって」
「そうか」
アンセルは、ちいさいお父さんはやっぱりお父さんなんだなと思った。
ちいさくて声も高いけれど、いつもアンセルのことを一番に考えてくれている。
「キースさんはやさしいですね」
「誰にでもわけへだてなく優しいわけじゃないよ。聖人君子じゃないからな」
「そうなんですか?」
そう応じるアンセルに、これは全然信じてないなとキースは思う。
「俺を勝手に神格化するなよ」
「──ごめんなさい」
「失望させたくない、とか思っちゃうのは不健全だからな」
「はい」
「父親って大変だな」
「あなたにそんな負担を強いる気はまったく」
「わかってる」
本屋に到着すると、ふたりはばらばらに本棚をめぐった。
おのおのしばらく立ち読みをした。
キースはそのうちいくつか本を買って、ふたりは店を出る。
帰り道、例のお菓子屋さんの前で彼が止まった。
「ごほうびになにか買ってやるよ」
「なんのごほうびですか?」
「知らない時代でたったひとり、仕事がんばってるだろう?」
「特にがんばりどころはないままですが」
「満足に食事もしないでは、腹は減らないとはいえ気持ちが弱るんじゃないかと思って」
「──はい。そうかもしれません」
「俺のこづかいじゃそんなに大したものは買ってやれないが」
「充分です」
お菓子屋さんに入ると、ドアベルがカランカランと鳴った。
すぐに、焼き菓子のいいにおいがする。
店主のおじさんには見おぼえがある気がした。たしか、彼が作ったお菓子を売っているのだ。
店内を見てまわる。
どれも美味しそうで、目うつりしてしまう。
小さなころ父と来たときに買ってくれたのはたしか──
キースのそでをひいて、ドーナツを指す。
彼は心得て、会計に向かった。
会計がすむと、外へ出る。
「帰ろう」
7日目。
ついに明日がコンペティションの発表会と授賞式の日だ。
うまくいけば、アンセルが元の時代に戻る日にもなるかもしれない。
その日を待っていたはずだけれど、どこか明日が来なければいいのにというきもちで、ずっとキースの寝顔を見ていた。
8日目。
その日が来た。
一緒に講堂へむかうというわけにもいかず、キースが発表会と授賞式に行ってるあいだ、アンセルはじっと部屋で待っていた。
もちろん見に行きたかったけれど、人が多く集まるところへ行くのははばかられた。
夕食の時間が終わった後、彼が部屋に戻る。
「だから言ったろ、アニー」
と、優勝の盾を見せた。
本当に優勝したのだ。
彼の努力が報われてよかった。アンセルは、すべてを度外視して、ただ喜ばしいきもちでいっぱいになる。
「おめでとうございます!」
「ありがとう」
「本当に、よかったです」
アンセルがほんとうにうれしそうに笑うので、キースもますますうれしくなった。
「そうだ、石を確認してくれ」
と、盾を見せた。
その真ん中よりすこし右上のあたりにはたしかに虹色の石がはまっている。
護符を近づけてみると、たしかにそれだと確認できた。
「これですね。とれますか?」
「すこし留め具を壊さないといけないかもな」
「すみません。せっかくの優勝トロフィーなのに」
「気にするな。これはただの物だ。俺の評価そのものが傷つくわけじゃない」
「はい。ありがとうございます」
キースはペンチのようなものを出して、留め具を曲げ、石を取り外した。
石を持ったほうの手を差し出し、アンセルが手をのばすと、そこへ置いた。
アンセルは、受け取った石をじっと見た。
「これで、お別れですね」
「おまえの任務は終わりだ」
「はい」
「でも──」
キースはアンセルの手をとった。
「もしよければ、もう一晩いてくれないか。俺のために」
彼がなにを言わんとしているのかは、アンセルにもわかった。
わかったので、どうしていいかわからなくなった。
彼が、自分のことをそんな風に思っていてくれてるなんて考えもしなかった。
彼のように聡明できちんとした人が。
自分の時代の父は、アンセルにそういうことはなにひとつ言わなかった。
そんなそぶりもない。
20年以上経って、忘れてしまったのかもしれない。
そういうことなのだ。
彼の気持ちを受け入れることはきっと正しいことではないだろうと思う。
でも、アンセルの気持ちは。
未来では絶対に叶わない想いなのだ。
きっと叶えることができる最初で最後の機会。
忘れてしまうならそれでもいい。
どうか止めに来ないでママ──
アンセルは祈った。
幸か不幸か、母は来なかった。
「──はい」
アンセルの答えに、キースは照れたように微笑った。
「これ、はずしても?」
そう言ってキースはアンセルの護符をなぞった。
「はい」
アンセルの返事をまって、彼は護符をはずした。
ベッド脇の目覚まし時計の隣に置く。
アンセルは初めて、この時代の人間になった。
彼とともに生きている。
手を握られるだけで、鼓動がうるさいくらいにはやまった。
キースの手を見た。お父さんとおなじところに傷がある。だからちっとも怖くない。
くちびるが触れる。
今度はちゃんと起きている。
ふしぎな感じだ。それからすごく満ち足りたきもち。
羞恥心に耐えられなくなって、目を閉じた。
たくさんキスをされ、服を脱がされてゆく。
期待と不安。彼のものになるよろこび。
これはきっと最初で最後のこと。
でもしあわせだった。大好きなひとに、求めてもらえるのだから。
九葉アンセルというひとはほんとうにうつくしい少年だった。
きれいなからだ。健康で、傷ひとつない。
たいせつに育てられたのだろうと簡単に想像できた。
俺はこれを育てなければならないのか。責任重大だな。
キースは思った。
でも自分はきっとそうするのだという確信のようなものがあった。
「今何時ですか?!」
夜更けに目をあけたアンセルは開口一番そう言った。
「一時すこし前かな。なにか問題か?」
まだ寝ついていなかったキースが応える。
「長い時間護符をはずしっぱなしでは、お父さんを心配させてしまいます」
「未来の俺か」
「僕を見送ってくれたので、すぐ戻ると思っているでしょうから」
そうは言ってもアンセルはシャワーに入ってから護符を再びつけた。
キースはなんとなく時計を見た。
彼の護符をはずしてから、四時間十七分が経っていた。
9日目の朝。
朝日が昇り、部屋も明るくなる。
キースは朝食へむかうためにいつものように身支度をした。
アンセルも脱いでいた制服の上着をはおった。
護符を確認するように握る。
「今度こそほんとうにお別れですね」
「さみしくなる」
「はい」
お別れはとてもさみしい。
元の時代にはお父さんがいるけれど、もう二度と“彼”には会えないのだ。
キースは、アンセルの手を握った。
「未来でまた会おう」
その言葉に、アンセルははじかれたように顔を上げる。
彼は、自信に満ちた表情をしていた。
「────はい」
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