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現代を出発したときにはまだ昼だったが、戻ったときにはもうかなり日がかたむいていた。
西日が差し、部屋は茜色に染まっている。
護符をはずしていた時間の分、ズレたのだろう。
しかし過去へむかったときとおなじ場所で、現在の父が出迎えてくれた。
顔を見るとホッとする。
「ただいま、お父さん」
アンセルの声に、彼はとてもうれしそうに微笑む。
「また会ったな、アニー」
言葉にならなかった。
その科白でアンセルは、彼は全部おぼえていたのだということを知った。
「二十四年待った」
そう言って抱き寄せられる。
キースさんのにおいだ。
「はい──お待たせしました」
アンセルは父に、力の限りぎゅと抱きついた。
彼はずっとアンセルのことをおぼえていてくれたのだ。
うれしい。
うれしい。涙が出そうだ。
ていねいに、護符をはずされた。
父はアンセルの顔を上げさせると、くちびるを寄せた。
元の時代の父と初めてのキスだ。
混乱と歓喜がないまぜになった感情。
昨夜キースさんとしたのと同じようで、違うようでもあった。
アンセルの顔をすっかり覆うことのできる大きな手。
見上げる身長の高さ。
身体にまわされた力強い腕。
それからよく知ったお父さんの顔。
それは、ずっと欲しかったものそのものだった。
「おとうさん──」
息をつく合間に呼ぶ。
他者と肉体を交わすよろこびはすでに知っていた。
とまどいはなく、すなおに享受される。
「アンセル」
くちびるは耳を食み、えらをたどり、のど元へ降りてゆく。
「あの、おとうさん、ぼく……」
恣意的なふれかたに、アンセルは“昨夜”を思い出して、なんだか動揺した。
父はアンセルの首元に、その痕跡を見つけた。親指でなぞる。
「あ」
アンセルには見えないけれど、それがなにを意味するのかはわかった。
「自分なのはわかっているが、今となってはくやしい気もするな」
そう言われるとなんだか恥ずかしい気分になる。
「ご、めんなさい──」
「おまえが謝る必要はない」
大きな手が、いたわるようにほおをさすった。
父の手には傷跡がある。
キースさんとおなじだ。
アンセルはその手に触れて、傷跡を撫ぜた。
「俺には時間がある。だろう?」
「…………はい」
ドアの閉まる音に、どこか緊張する。
父の部屋に入るのは、ずいぶん久しぶりだ。
長じてからは中に入るような機会はあまりなかったので。
思わず笑みがこぼれた。
「どうかしたか?」
「いえ。ただ、キースさんの部屋とおなじにおいだなって」
「そりゃあまあ、俺だからな」
「はい」
うしろから抱きしめられると、その腕の中にすっかりおさまってしまう。
大人になったのだ、と思った。
けれどその安心する体温は変わらない。
それを知ったばかりの身体はまだ敏感に、そのあたたかさにふるえた。
「十四の俺はちゃんとおまえによくしてやれたか?」
「はい。キースさんはすごくやさしくしてくれましたよ」
服を脱がされる既視感のあるシチュエーション。
けれどベッドに組み伏せられた光景はすこし違っていた。
視界いっぱいが彼のすがた。
「大きくなりましたね、キースさん」
「それを息子から言われるとはな」
困ったように微笑む父に、アンセルもふふと笑った。
これからなにが起こるのかもうわかっている。
なにも不安に思う必要がない。
あるのは決壊しそうな期待だけ。
彼のものになる。
初めてのときのようなこれで最後という悲愴さも不安もない。
ずっと欲しかったものをほんとうに手に入れる。
気がつくとあたりはうっすらと明らんでいた。
朝がきたのだ。
徐々に意識がはっきりとして、となりで眠る父の顔が見えた。
大きいほうの父と朝ベッドにいるなんて、ふしぎな感じだ。
幼いころにはそんなこともあったし、つい昨日までは若い父と寝ていたけれど、今の父と今の自分はなんだかとても気恥ずかしいような、満ち足りるようなきもちだ。
父がゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
「おはようございます」
「俺の寝顔を見るのは楽しかったか?」
「はい」
ふたりとも目をさましたので、起き出して着替えを始める。
「お父さんが起きるところ初めて見た気がします。いつも先に起きていますよね」
「父親だからな」
「ちいさいお父さんも早起きでしたよ」
その言葉に父は、ふ、と微笑んで息子のほおを撫ぜた。
「十四歳の少年が、こんなにきれいなひとをとなりにしてのんびり寝ていられるとでも?」
アンセルはふわっとほおを染める。
「どきどきしましたか?」
「した」
「そっかあ」
あのキースさんがそんな風に思ってくれていたなんてちっとも知らなかった。すごくうれしい。
「まあ、寮には朝食の時間があるから起床時間もおのずと決まってはいた」
「ですよね」
「でもきれいだと思ったのは本当だ」
「はい」
「今も思ってる」
「──はい」
朝食にしようと父の部屋の外へ出るが、どうやら義母も義弟も家にいないようだった。
聞くと、昨日父が義母に頼んで外に出てもらったらしい。
アンセルが過去へ行った後、どうなるか知っていたからだ。
「知っていたのにずっと黙っていたんですね」
「俺が歴史を歪めたら元も子もないだろう」
「そうですね。でも、僕はずっと、叶わない願いなのだと思っていました」
「悪いことをしたな」
「いいえ。お父さんの方がもっと大変だったでしょう」
「報われたからいいんだ」
「僕も、です」
アンセルはもう一度キスして欲しいなと思い、父はそのとおりにしてくれた。
「キースさんが大きくなるところを見られなくて、すこし残念な気がします」
食事のしたくをしてくれる父の大きくなった背中を眺め、アンセルは言った。
キースはあの後、アンセルの成長をすべて見ることができたというのに。
無茶を言っているのはわかっていても、どうしても、あの少年と目の前の父をつなぐ時間を自分も共にしたかったというきもちになってしまう。
調理を終えた父は、皿をふたつテーブルに置いて、
「おまえの能力なら、まだチャンスはあるのかもしれないぞ」
と、言った。
「な、なにか知っているんですか?」
「さあな。一般論だ」
そう言って、息子の頭を撫ぜた。
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