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与えられた姿
「いいかい? 今から君の手当てや状態を確認するために、人の姿にするよ。感覚が変わるかもしれないが、我慢してくれるかな。傷の確認が終わった後なら、君が望めば魂獣の姿に戻すこともできるからさ」
知らない声。いいよー、のつもりで頑張って短い前足を動かす。
優しくけだまを撫でられてクロはいい気持ちだった。
(ニンゲン、なれるの……? でも、おれがニンゲンになったらどうなるんだろう)
髪の毛の部分なんかは、もこもこのけだまのままだったりして。それでも、ニンゲンになれることが嬉しくて、夢か現実も分からない状態でクロは目をとじたままニコニコと笑った。
それから体全体が熱くなって、急激に肌寒くなった。
(ニンゲンになるって、寒いってことなのかな)
今までふわふわのけだまに守られていたから、クロはずっと寒さを知らずに生きてきた。確かに、自分の身体は変わってしまったらしい。それでも、目を開けて踊り出す気力は残念ながらない。
深く痛むところはあったが、段々とその痛みも薄れていった。治療成功かな、なんて同じニンゲンの声が聞こえた。
痛みはほとんどなくなっても、とてつもなく眠くて寒くて、クロは目を開けることができない。ふと、身体を包むものを与えてもらった。あたたかな布もかけてもらった。それがとても心地よくて、クロはじっと目をとじながら、微睡み続けた。
「おはようございます! お目ざめになられて良かったです」
いい匂いに釣られて、ふっと目を覚ましたクロは間近にニンゲンがいて驚いた。「あの、おれは」と戸惑いながら声を出す。
ニンゲンたちは、いつもクロのことを見ると『キモチワルイ』という呪文を唱えてきた。しかし、小柄で年配の女性は柔和な笑みを浮かべるばかりで、クロはますます戸惑った。
「わたくしは貴方様のお世話を主人より仰せつかりました、ハンナと申します。何かお好きなお飲み物はございますか? お飲み物を用意しましたら、主人に貴方のお目覚めを伝えて参りますね」
「おれの好きな、のみもの……?」
だって、魂獣には食べ物も飲み物も必要ない。そう答えると小柄な女性は「さようでございますか」と目をパチクリとさせて、「ではこちらでご用意させていただきますね」と微笑んできた。
(なんだか、おれの言葉が通じているみたい……)
ハッとなって急いで自分の手を見た。自分の意志で動くのに、ニンゲンの手のひらそっくりなものになっている。それから手のひらで己の顔をペタペタと触ってみたが、けだまはなく、すべすべとした肌ざわりになっていた。
「おれっ、おれ、けだまじゃなくなった⁈」
ふわっとはしているが、髪は柔らかく細い毛質をしているし、手や顔はもちろん、足にもけだまはない。夢だと思っていたことが現実になっていて、クロは着せられている服を脱ごうともがき始めた。
「あらあら、その生地はお気に召しませんでしたか?」
「あの、おれ、ニンゲンの姿しているの?」
「ええ、どこからどう見ても素敵な青年の姿をしていらっしゃいますよ。柔らかな黒灰の髪に、琥珀色の瞳がとても素敵ですわ。愛嬌のある表情がよく似合う、整った小さなお顔をしていらして」
彼女――ハンナの言葉も、呪文みたいだ。聞けば聞くほど、自分のこととは思えないのに恥ずかしくなってくる。
「ハンナにも、おれの言葉が伝わってるってこと?」
「ええ、伝わっておりますとも。大丈夫ですよ、ここには恐ろしいものは何もありません」
そうか、恐ろしいものは何もないんだ。
(じゃあ、アズウィルドのことも、もしかして……夢?)
契約してくれるって、言ってたけど。
でも、けだまを刈られちゃうかもしれないし。
「違う。おれ、けだま、刈られちゃった……⁈」
すでにけだまは刈られた後なのではないか。クロは急いで自分が寝ていたところから飛び出そうとした。長い足はもつれてしまって上手く動かせず、ズキリとどこかが激しく痛んで床へと落ちてしまった。今までなら痛みなんて覚えなかったくらいの高さなのに、顔から落ちてしまい頬のあたりがとにかく痛い。
「あらまあ、大変! 誰かっ、お医者様をお呼びして!!」
ハンナが慌ててベルを鳴らしだしたので、クロは慌てて「だいじょぶ!」と声を上げた。
「おれ、こういうの慣れているからだいじょぶ。あの、おれの名前は、クロ。みんながそう呼ぶから、たぶんそう」
オーナーがクロと呼び始めてから、テンインたちもみんなクロと呼ぶようになった。それが、いつの間にかクロの名前になった。
「クロ様……お名前を教えてくださってありがとうございます。でも、クロ様。こういうことに、痛みに慣れてはいけませんのよ。こんなに傷だらけで……おいたわしい」
「けだまの時は、ほんとうに痛くないんだよ。あああ、おれっ、テンインの魂獣を、公園の木に隠してきたんだ! 悪いやつがね、お店にやってきて……」
とても大事なことをやっと思い出し、クロは急いで扉へと駆け寄った。「クロ様!」とハンナの声が追いかけてきたが、クロはあの子を守るために頑張ったのだ。扉はどうやって開けるのだろう、とドアノブに手をかけたら、勝手に動いてクロは驚きで固まった。
「目が覚めたか」
「アズウィルド!」
ニンゲンの姿になれたはずなのに、アズウィルドとは身長差があるせいで見上げる格好になってしまう。今までのことが夢ではないのだとして、もう一度会えたら、いろんなことを聞いてみたかった。主に契約とか、契約とか、契約のことについてだ。テンインの魂獣のこと、オーナーやトラ、オオカミたちのことも知りたいし、そもそもどうして自分がニンゲンの姿をしているのかも知りたい。「クロ様」とハンナから呼びとめられても、クロの手はアズウィルドの上等そうな上着をしっかり掴んでいた。
「おれ、アズウィルドにいろんなことを聞きたくて……契約っ!」
「――似ている」
「え? 何に似ているの? おれのこと?」
アズウィルドが小声で呟いたのをしっかりクロの耳は拾って、聞き返す。答えは返って来ない。
美しい縹色の瞳の持ち主はクロを一瞥して、「この者の服を整えて、食事を与えてやれ」とハンナに指示するのみだ。
「おれは魂獣だから。たべものも、のみものもいらないよ、アズウィルド。おれと契約するって、言ってくれたのは……もしかして、冗談だった? そっか、そうだよね」
知ってた、とクロは精一杯明るく笑ってみせた。
まっくろなばけものけだまの時よりも口が動くので、これならしっかり笑って見えるに違いない。そうか、アズウィルドはきっと、何かとクロを間違えてしまったのだ。
「あのね、でも、契約するってハッキリ言ってくれたのはアズウィルドがはじめてだったから。とても嬉しかったよ、ありがと! おれ、魂獣カフェに戻りたいな。オーナーのところ。トラとオオカミはね、もうきっといないけど、あそこしか帰ってもいい場所、知らないんだ」
「少し黙れ」
冷たい一喝に、クロは急いで両の掌で己の口を塞いだ。いつもオーナーに話しかける時のように、たくさん話しかけてはいけなかったらしい。
(そっか、けだまの時はそもそも言葉が通じていなかったもんね)
アズウィルドがいやなら、けだまに戻った方が良いだろうか。気合を入れていつもの姿に戻ろうと頑張ったのに、なぜかお腹のあたりからきゅるう、というへんてこりんな音がしてクロは飛び上がった。
「おおおっ、おれの身体からっ、変な音がしたあ!!」
「クロ様、すぐにお食事をお持ちしますからね」
お腹のあたりからした音は、ハンナたちにも聞こえていたらしい。笑顔でクロに声をかけてくれたハンナは、アズウィルドに深くお辞儀をして部屋から出て行ってしまった。
「アズウィルド、ごめんね。おれ、頑張って話さないようにしたいのに、おれの体が勝手に音を出すんだよ」
すっかりクロに呆れてしまったのか、もうアズウィルドは返事もしてくれない。
どうしよう、どうすればいい。
必死にどう話しかけようか悩むクロに、アズウィルドは無言のまま自身の肩にかけていた外套を、服がはだけているクロの肩にかけた。そうして、部屋から出て行こうとする。
入れ替わりに、また見知らぬニンゲンが顔を出してクロは驚いた。
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