春雨(しゅんう)

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  春雨がいなくなって一週間、もはや淡い期待も抱けずに、重たい体を引きずりながら自宅マンションにたどり着くと、ポストに一通の手紙が入っていた。差出人は春雨。住所も書いてある。杏子は急いで部屋に入ると、手紙の封を切った。白い縦書きの便箋に、春雨の文字。愛おしい、春雨の文字。 「杏子へ  突然姿を消して、ごめんなさい。  僕は、もう小説を書けません。杏子が好きでいてくれた、小説を書けません。実は、もうだいぶ前からそうなのです。それを騙し騙し、何とか物語の形にして、杏子に見せていました。杏子には文学新人賞に変わらず応募し続けていると言っていましたが、もうここ五年は応募もしていません。いくら応募しても、何の手応えもないのです。僕は何のために小説を書くのか、もう分からなくなってしまいました。  杏子と暮らし始めた頃は、小説を書くのが楽しかった。僕には小説しかない、そう思っていました。周りの誰もが陰では嘲笑する中、杏子だけが、心の底から、僕を応援してくれましたね。そんな杏子に甘えて、気付けば二十年間も、僕はあなたに食べさせてもらっていました。 小説を書けていた頃はまだ良かった。何より杏子が喜んでくれたから。  でも、もうだめなのです。僕では、もうだめなのです。ごめんなさい。  小説が書けなくなった今、僕は杏子の元にいる資格はない。  本当に、ごめんなさい。       春雨」  杏子は、手紙をバッグに突っ込むと、急いで外に出た。眩しい日差し。走って駅に向かう。電車に乗ると、封筒に記された差出人住所をスマートフォンで調べる。何を言っているの、春雨。ちょっと心が弱くなっているだけよ。それはそうよ。二十年間も、あなたは頑張ってきたんだから。お楽しみの三か月に一回の焼肉、まだ行ってなかったわよね。次の休みにでも行きましょう。大好きなハラミとタンをお腹いっぱい食べれば、また元気も出てくるよ。だから、ねえ、そんなこと言わないで。お願いだから。春雨は携帯電話を持っていない。お金は私が出すからと何度も言ったのに、春雨は携帯電話を持たなかった。それでも、春雨はいつも家にいたから、これまで特に問題はなかった。やはり春雨に携帯電話を持たせておくべきだった。杏子は自分のスマートフォンを握り締めながら、そう後悔していた。
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