春雨(しゅんう)

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 差出人住所の最寄り駅で電車を降りると、スマートフォンで地図を見ながら、住所に書かれたマンションに向かう。そこは、立派なマンションだった。エントランスで404号室を押す。「はい」女性の声だ。杏子が名を名乗り、春雨がそこにいないか尋ねると、「どうぞ」とエントランスの自動ドアが開いた。杏子はためらわず中へと進む。   404号室のチャイムを鳴らすと、中から女性が出てきた。気だるそうな、素人ではなさそうな女性だった。「どうぞ」と家の中に入るよう言われる。「いえ、ここで」と杏子が言うと、「そんなとこに突っ立ってられると、こっちも迷惑なので」と女性が言う。そう言われると、入るしかない。杏子は「お邪魔します」と、スニーカーを脱いで、家に上がった。  大きなリビングに大きなソファ。ブランド物の服に、ブランド物のバッグが、そこら中に無雑作に転がっている。煙草と香水の臭い。むんと鼻につき、思わず杏子は顔をしかめた。 「その辺に適当に座って」  杏子は言われるがままに、ソファに座る。 「あの、春雨は」 「殺したよ」 女性は煙草に火をつけながら、事も無げに言う。 「えっ」 「あいつが殺してくださいと泣いて頼んでくるから。これも人助けだと思ってね」女性はダイニングチェアに座ると、足を組んで、髪を搔き上げた。素足に鮮やかな紅色のペディキュアが、血を連想させる。 「冗談、ですよね」杏子は恐る恐る女性に尋ねる。身の危険を感じる。だが、女性とは距離がある。何かあれば逃げ出せる。そう思って、必死に動揺を抑える。 「あなたのことは嫌という程聞いているよ。あの男、私と会っている時も、あなたの話ばかりしてきたから」女性は煙草の煙をふうっと吐き出す。 足の爪をやすりで整え始める。「私が酔っ払って一人道端でゲーゲー吐いている時にね、あの男が『大丈夫ですか』と声をかけてきたのよ。私笑っちゃったわ。だってあの男、いい歳してまるで捨てられた子犬みたいにオドオドと。どっちが大丈夫なのって感じよ。私、介抱されるふりをして、ここに連れ込んだわ。それからよ、私とあの男との関係は」  それからって、一体いつから。杏子は目の前がくらくらした。だって春雨は、いつも家にいて、いつも私の帰りを待っていて。杏子は思い出す。最近、夜勤から帰ってくると、春雨はよく先に風呂を済ませていた。それって、この臭いを消すため? 「あの男の死体、見たいわよね」爪の手入れを続けながら、こちらには目もくれずに女性が言う。 「本当に、殺したのですか」 「だからそう言ってるじゃない。もうすぐその目で確認できるわよ」そう言うと、女性は黙る。沈黙の時間が続く。杏子は、バッグの中のスマートフォンで警察に連絡しようか迷った。だが、下手に女性を刺激してはいけないと、おとなしく座っていた。
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