春雨(しゅんう)

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 どのくらい時間が経っただろう。玄関のドアが開く音がする。リビングに男の人が入ってくる。オールバックに髪を撫で付け、黒のスーツに、黒のシャツ。 「春雨!」杏子は思わず大声を上げ、立ち上がった。男は怪訝そうな表情を浮かべ、「どちら様ですか」と杏子を一瞥する。 「コロ、遅かったじゃない」 「チーフに色々教えて頂いていたもので」男は杏子には構わず、女性の方に向かう。女性が新しい煙草を口にくわえる。男がすかさずポケットから銀のライターを取り出し、片膝をついて、女性の煙草に火をつける。 「春雨、何やってるの? 帰ろう」 杏子が男に声をかける。 「誰ですかこの女」 男が女性に尋ねる。女性はその問いには答えず、「な、言ったろ。その、春雨という男は死んだんだ。これがその死体。で今は私の犬のコロだ」と杏子に向かって言う。 「冗談でしょ、春雨。ねえ、帰ろう。私あなたが小説書けなくても全然構わない。あなたはあなたでいてさえくれればいいの。ねえ、私を一人にしないで」杏子は必死に男に言う。「封筒にここの住所を書いたのって、私に迎えに来て欲しかったからでしょ。何かの冗談よね、これ。小説のネタ?」最後は少し涙声になる。 「この女、何を言ってるんですか」男は女性から目を逸らさない。 「な、分かったろ。さあ、もう死体は見せた。後はお帰り下さい」女性が立ち上がる。男が杏子の方に歩み寄り、「こちらです」と玄関にいざなう。男から強い香水の臭いがする。男は杏子と目を合わせない。 「ねえ、春雨」と杏子は男の腕を掴む。構わず男は「こちらです」と玄関に向かう。「ねえ、春雨、悪い冗談よね。そんな格好も髪型も、似合わないよ。もう分かったから」と杏子は男にすがりつく。見ると、男の目が赤くなっている。その目を決して杏子に向けることなく、男は、杏子を玄関の外に押し出した。  ドアが閉まる。杏子は呆然とその場に立ち尽くす。家のチャイムを鳴らしたが、二度とドアは開かなかった。
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