春雨(しゅんう)

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 夜勤明けの重たい体に眩しい朝日が容赦なく降り注ぐ。(あん)()は顔をしかめると、否応なしに現実に引き戻される。(しゅん)()がいない。二十年間共に暮らしたのに、何も言わず、出て行ってしまった。 病院勤務から戻れば、いつも家に春雨がいる。それが杏子の張り合いだった。生きがいだった。春雨が家で小説を書いている。杏子の帰りをいつも待ちながら。  春雨は不規則な看護師のシフトに合わせ、いつも杏子が仕事をしている時に小説を書き、杏子が寝る時に一緒に寝た。二十年間、変わらずに。  杏子は春雨の小説が好きだった。切ない恋愛物。春雨は、二十年間、そればかり書いていた。杏子は春雨を尊敬した。様々な恋愛ストーリーが尽きることなく浮かんでくる、その豊かな想像力を。私をいつもうっとりとさせる、その美しい表現力を。他の誰も分かってくれなくても、私だけは春雨の才能を信じている。春雨の小説を信じている。 私は仕事をするしか能がない女。春雨のような芸術的才能のある人を少しでも応援できれば。それは私にとっても、かけがえのない夢。  そう思っていた。それなのに。  ふらっと外に出て行っただけだよね。すぐ戻って来るよね。  杏子はこの一週間、春雨が家に戻っているのではないかと期待しながら帰宅した。だが、その期待は、ことごとく裏切られていた。何か事件に巻き込まれたのではと、警察に相談することすら考えていた。
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