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今日はどこまでも鮮やかなブルーブルー
突き抜けるように高い空。これがスカイブルーだと目一杯に叫びたいくらいの、晴天な青空。
白い雲は申し訳なさそうに浮いているだけで、遮るものに邪魔されない日差しは、頭上にじりじり降り注いでいる。
歩道橋に足をかけ、ぐんっと力を入れる。ドオンドオンと独特の音が響き、私のこの体重に、頑丈なはずの歩道橋が悲鳴を上げているようにも聞こえて失笑。
「あの頃より少し、太ったからなあ」
最近、体重は右肩上がり。ぽっちゃり気味の身体を支える足には、相当な負担をかけている。
「ママーー」
歩道橋の向こう。
同じようにして階段を駆け上がり、手を振りながらこちらへ走ってくる男の子がいる。
強い日差しに目を細めていたから、一瞬。知らない他所の子だと勘違いをしてしまった。
母親失格の烙印を自分で押すのにももう、慣れてしまっている。
一ヶ月ばかり会わないと、その眼差しも顔つきもなにもかもが、こうも朧げになるものなのだろうか。
私がふうふう言いながら少しずつ階段を上がっていくものだから、あっという間に息子は歩道橋を渡り終えて、階段を駆け下りてきた。
「ママ、久しぶり」
息子の声、こんなトーンだったかな。失格。
「ん、久しぶりだね。元気にしてた?」
「僕、元気だよ」
「そうみたいね」
息子は紅潮した顔で、私を上から見おろしてくる。口は八分の一に切った西瓜(スイカ)のようで、瞳は三日月だ。ほんのりと笑みをたたえている。
ああ、息子は笑顔を取り戻したのだな。
そう理解して内心、ほっとした。
私がそばに居なくとも、生きていけるのだと。いや、居ない方が、いいのだとも。
生活にも自分にも余裕がなくなると、途端に怒りに支配され狂ったように手を上げてしまうような、母親失格の私など。
今日は息子に会える日、会うことが許されている日。
この約束は、いつまで続くのだろう?
「ママ? ファミレス、行くんだよね?」
私がなにも言わないからか、息子は怪訝そうな顔を浮かべる。そして歩道橋を挟んだ、向こう側にあるファミレスを見た。
向こうをむいている息子の小さな頭にそっと顔を寄せる。走ってきたからか少年特有の汗の匂いが、ふわりと漂ってくる。
息子があかちゃんだった時の、あの甘ったるい香りとは全然変わっていて。
こんな些細なことにすら、気づくのにずいぶんと時間がかかってしまって、また失格と落ち込んだ。
「うん、行こう。ママね、今日はパフェが食べたいなあって思ってた」
息子が嬉しそうに、顔を戻してこちらを向く。
「僕は、パンケーキ」
「ええ? パンケーキ? バニラアイスじゃなくて?」
「うん。クラスの女の子たちがパンケーキ食べて、おいしかったって言ってたから」
息子の言葉を一言一句、噛みしめる。そんな中でも、私が共有できない息子の世界に、少しの嫉妬と羨望、そして寂寥の情が湧く。
けれど、そうだったね、もう息子も6年生なのだ。
「そうなんだ、じゃあパンケーキとパフェを注文して、半分こしない?」
「いいよ、いこう」
階段を歩き出す。私は息子の斜め後ろをついていく。
階段を登り切ってからひと息つき、そろそろと歩いていって歩道橋の真ん中あたりで、私は手すりを持ったまま立ち止まった。
仰ぎ見れば青空に、さっきよりは少しだけ、白雲が増えていた。
このスカイブルーな空は、こんな私をどう思っているのだろうか?
「ママーどうしたのー」
すでに向こう側に到着している息子が、こちらに顔を寄越しながら、叫ぶ。
私はまた歩き出した。
一ヶ月に一度。
この歩道橋を渡って息子に会いにいき、そして独り、また帰っていく。
帰りのことを考えると、胸が詰まりそうになり、息苦しさが一気に全身から脳天へと駆け上る。
それと同時に。涙がじわりと目尻に滲んだ。
私は泣くまいと、ビルと空の境界ら辺を見上げた。
気分的には、さっきまでの青空が、真っ黒で重々しい雷雲に覆われていくような感じだ。ずくずくと湿り気を帯びていく感情。今でもまだ、この暴れ馬のような感情をコントロールする、その練習(トレーニング)を繰り返している。
その時、だだだっと歩道橋が揺れた。驚いて顔を戻すと、息子が走ってくる。
「ママ、遅いよ」
あっという間に私の背後へと回り込み、私の腰を両手でぐうっと押す。
「ごめんごめん」
「うわあ、ママ、また太った?」
笑ってしまった。キツイ意見だけれど、真実だから仕方がない。息子に会うことで、私は見て見ぬふりをしている現実、自分の意志の弱さをこうして、見つめさせられる。
会えない息子を、恋しく思う。
けれど、真実を言えば、私には息子を恋しく思う権利などない。
子を守り育てる『親』という立場を、自分から捨てたのだ。抑えきれない『怒り』によって、放棄したも同然なのだ。
自業自得の罪と罰。
息子に会えない一ヶ月は、延々と続くどこかのお城の回廊に迷い込んだよう。
苦笑いを浮かべながら、押されるままに歩道橋を歩く。
ああ、このまま。
息子と一緒に、この空へと駆け上がっていって、例えば夜、月明かりに寄り添って、繋がっていられる星座のようになれたならなあ。
例えば昼、この白い雲をおおらかに包む青空のように、息子を抱っこしたまま、一緒に眠れたらなあ。
雨の日の傘のように。風に揺れる大樹の葉っぱのように。
息子を守れたら。
どんな日もそのブルーの下で手を繋ぎ、もう少しだけ、もう少しだけ。
息子と一緒にいられたら。
すると、そんな私の願いを見透かしたように、息子が私の隣へとくっついてきて、
「……ママ、手をつないでいい?」
息子からのおずおずとした提案に、むかし有無を言わせず飛びついてきた、幼い頃の真っさらな無邪気さはない。当たり前だ。私が息子の笑顔とともに、それを奪ったのだから。
けれど、
「うん、いいよ」
そう言って、まだ小さな手をそっと握る。
息子の温かい体温が伝わってきて、私は手に力を込める。
この子はね、他の子と比べると、平熱が高い方なの。
今日はどこまでも鮮やかなブルーブルー。
その青さが目にしみて、涙がこぼれた。
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