朝凪

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僕は、落ちてきそうな星々を映して細まる、彼女の瞳が好きだ。 綺麗に上向いたまつ毛が笑みと共に瞳に影を落とすのを見ていると、つい触れてしまいたくなる。 「晴れて良かったね」 隠しきれない喜びが滲む声を聞くのも好きだ。 普段は天気なんて気にもしない彼女は、この日だけは欠かさずに。何日も前から天気予報を確認しては、喜怒哀楽をそれこそ天気のように変化させる。 晴れだと分かれば、顔を輝かせて好きな歌を口ずさみ。 雨だと分かれば、顔を曇らせて歪なてるてる坊主を量産し。 七夕が近くなると狭い窓がてるてる坊主に占領されるのは、毎年恒例のことだった。 「晴れますように」と。 名前しか知らない相手の幸せを懸命に願う、彼女の馬鹿みたいな真っすぐさは。何事にも興味を持てず、心を動かされることも無く。ただひたすら凪いでいた僕を静かに撫でた。 僕は変えられたのだ。 真綿に首を締められるように、そっと。僕という存在を血の繋がりもない赤の他人に塗り替えられて。でもそれを不快だと思ったことは一度もなかった。 「何か良いことでもあった?」 熱心に読んでいた旅行雑誌と同じ熱量を保ったまま、朝日に溶ける瞳が僕を映す。 今その瞳に映っているのは自分だけ。たったそれだけのことで、こんなにも心が満たされる。 昔の知り合いが僕を見たら腹を抱えて笑うか、別人を疑われるかのどちらかだろう。 でもこれでいい。これがいい。 この木漏れ日の下で微睡むみたいに、ありきたりで退屈な、どこにでも転がっている平凡な日々が。今は何よりも大切で愛おしい。 彼女が選んだお揃いの青いカップの中身が揺れる。 「もうすぐ七夕だなって」 彼女が毎年、指折り数えている特別な日。 いつの間にか僕も気にするようになっていた日。 嬉しそうに綻ぶと思っていた表情は、訝しげなまま固まった。 「七夕? 結構先じゃない?」 視界の端で、カレンダーが力なく落ちる。 自然と追いかけた目が、大きく印字された数字を捉えた。 五月。 瞬きをしても。 拾い上げて確認しても。 そこには五という文字がこびり付いている。 「どうしたの凪君。もしかしてまだ寝惚けてる?」 彼女のからかい交じりの声が、年中窓にぶら下がっている風鈴の音と重なって耳を刺した。 狭い窓に丁度いいサイズの風鈴は、風がないにもかかわらず小さく揺れ続けている。 彼女の声と似た涼やかな音。 それを耳にするのが苦痛で、外してしまったはずの、もう聞くことはないと安堵していたもの。 何故。 湧き上がる違和感を必死に押し込めようとするのは、誰だろうか。 手を震わせて、声を震わせて。それなのに涙を流すことも出来ずに蹲っているのは、誰だろうか。 絶えず耳へと流し込まれる風鈴の音が、脳を掴んで離さない。 白い光が明滅する。 目を覚ませとでも言うように。 現実逃避など許さないとでも言うように。 僕から束の間の幸福さえも取り上げようとしている。 爪の食い込んだ掌も。歯が抉る唇も。痛みをまるで感じない。 「凪君」 ……あぁ、こんな風に。大事で仕方がないと滲む声で、彼女に名前を呼ばれるのが何よりも好きだった。 大嫌いな白い光に蝕まれて。彼女から引き剝がされていく。 「凪君」 少しだけでいい。彼女の声に恨みや後悔や憎しみが混ざっていてくれたなら、救われた気持ちになったかもしれないのに。 白い光に晒されている。 顔に張り付く髪を払い、近くに転がっていたリモコンを手繰り寄せた。 冷房の温度を二度下げ、断罪の光から身を守るように布団を被る。 彼女が大好きだと笑うから、僕も好きになった朝。 寝ぼけた僕をからかいながら、楽しそうに歩く朝の散歩。 清涼な空気に混ざる鉄の臭いと仄かに香る慣れ親しんだ匂い。 あと何度朝を迎えれば、汚く膿んだ傷が癒えてくれるのだろう。 あと何度白い光に焼かれたら、罪を償ったことになるのだろう。 瞼の裏に浮かぶ白から逃れたくてきつく目を閉じ、今日も必死に朝をやり過ごす。永遠に終わることのない責め苦を享受し続けられるほど、強い人間ではなかったのだと。彼女に出会うまでの僕は知らなかった。
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