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「行ってらっしゃいませ」
まだ七月になったばかりだと言うのに、噴き出す汗を拭う。
そんな僕とは対照的に、女将はきっちりと着物を身にまとったまま。暑さなんて少しも感じさせない笑顔を浮かべ、頭を下げた。
やっと落ち着いてきた心臓が立てる燻った音に気付かないふりをして。適当に会釈し、足早に炎天下の中に繰り出した。
真上から落ちてくる太陽光は白じゃない。それだけで呼吸が格段にしやすくて、肺いっぱいに体温よりも高い空気を取り込む。
容赦のない日差しの下、特に行く宛てはないままに歩いていた商店街。平日のせいか、それとも元々閑散としているのか。人気の無い道の先から、二人の子供が駆けてきた。
大口を開けてきゃらきゃらと笑う子供の顔は、頭上に広がる雲一つない快晴と同じ。
「こんにちはぁ!!」
「こんにちはー!」
その無邪気な笑顔にちらつく影を払って、表情を固定する。
「……こんにちは」
上手く笑えてないかもしれない。でも形ばかりでも笑っているのが大事なのだと彼女は良く言って──。
口角が強張る。心臓が太陽光を直接浴びせられたみたいにひりつく。
さっきまでただ暑いとしか感じていなかった光が急激に強く、重くなるのを感じた。
呼吸がから回って、脳に上手く酸素が回ってこない。
「……兄ちゃん?」
無邪気な顔が曇る。不安と少しの警戒。
ここで不審者認定されるのは避けたいと、重怠い片手を胸の前で振る。
「ごめん。ちょっと日に当たりすぎちゃったみたいで」
尖りかけた表情がぽかんと間の抜けたものから、あぁなるほど。と納得したものへと変わる。
「兄ちゃんもやしみたいだもんなぁ」
「……もやし」
「ちょっと実! お兄ちゃんに失礼だよ!!」
「でもいっぱい食べてちゃんと寝ないとダメだって母ちゃんよく言ってるぞ。兄ちゃんクマも酷いし、何だっけ。不摂生? してるんだろ! そんなんじゃ身体壊しちゃうんだからな!」
泥の付いた指が真っ直ぐに僕へと向けられる。
小鼻を膨らませ、口元を緩ませて。勝ち誇ったように笑うのは子供らしくて、素直に可愛いと思う。
子供は嫌いだったはずなのに、いつの間にかこんな所まで彼女の影が伸びている。
──あぁ、また。
白が身体に穴を穿っていく。
噴き出すのは赤い血じゃなくて、真っ黒な後悔と自己嫌悪。
「め、恵! 兄ちゃんが死にそう!!」
「えっ」
大きい二つの目が同時に僕を映す。
「ほんとだ! どっどうしよう実!」
「駄菓子屋のばあちゃんの所で休ませてもらおう! ……兄ちゃん! あとちょっと頑張れ!!」
僕の小説の中で無惨に摘み取られることの多い、小さな生命は。現実ではエネルギーに満ち満ちた手で、僕を救おうとしている。
何度も僕を振り返り。何度も僕へ声をかけ。
「大丈夫だから」「もう少しで着くから頑張って」声を張り上げ、懸命に僕の手を引く二つの手。
引かれるがままに足を動かす。
年齢が近い訳でも、家が近所と言うわけでもない。ついさっき挨拶を交わしただけの赤の他人。明日にでも記憶から消えてしまうような、繋がりとも呼べない希薄な関係。
その他人にここまで心を砕けることが、理解できなかった。
薄い画面の向こう側で。まるで自分とは関係のない悲劇には、悲しいだの可哀想だの過剰に感情を動かしてみせるくせに。目の前で起きた悲劇には、まるでそれが当然とでも言いたげな顔をして、笑いながらレンズを向ける。
そんなものばかり向けられ続けたせいで、また他人の不幸を意図的に、無意識に。娯楽にして消費していく存在としか認知できなくなっていたらしい。
前方から吹き付けてくる風が、神在島の商店街の匂いと僅かな潮の匂い共に内側にこびり付いたものを少しだけ攫って。後ろへと流していく。
からん、と遠くで、風鈴の音を聞いた気がした。
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