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第四話
旅立ちの日は、曇り空でしょうなんていう天気予報を裏切って、晴天の青空日和だった。
旅立ち、と言っても、電車で三十分のところだし、駅前のデパートなんかに行けば、知り合いの二、三人とは遭遇するだろうし、大げさかもしれない。
そうだ。この、駅のホームでえぐえぐと泣きじゃくるバカ親父は、大げさの極みだ。
隣の絹代も、苦笑を漏らして見守るしかないようだ。
「千里ぉぉぉぉ!! いいかぁっ!! 変な男には絶対ついて行くなよ!? 男はみんな狼だと思えッ!! もし襲ってきたらお父さんが爆買いしてやった唐辛子スプレーで目潰しするんだぞ!!」
「はいはい、分かったから、もうそれ百回くらい聞いたから、あんまり大声で……」
「仮に、仮にだぞ!? お前に見合う勤勉で誠実な年収一千万以上の次男が現れたとしても、まずはお父さんに紹介するんだぞ!! そいつが誠実の皮被ったクズ男じゃないかお父さんが見極めてやる!!」
「分かった分かった………たぶんそんな好条件いないと思うけどもうそのツッコみはやめとくわ……」
と、後半は小声でぼやく。
「香奈ちゃんにもよろしくな!! ちゃんと二人で栄養のある手料理を食べるんだぞ!! カップ麺とか寿命の縮みかねないものはダメだぞ!! あと無理なダイエットとかもしちゃダメだぞぉ!! 千里はただでさえ痩せてるんだから、ガリガリの骨と皮だけになんてなったら………ああああああああっ!! やっぱりお父さんも一緒に行きたいいいいいいいっ!!」
「もおおおおいい加減にしてっ!! ってか声デカすぎ!! みんな見てるし!! 絹代さんからも何か言ってくださいよぉ!!」
ホームに佇む人々から遠巻きでひそひそされ、悪目立ちしまくりの父の圧から逃げるように、千里は絹代に視線をやった。
絹代は小さく笑って、千尋の肩をぽんぽんと軽く叩く。
「千尋さん、落ち着いて。心配なのは私もだけど、せっかくの門出なんだから、千里ちゃんのためにも、笑顔で見送りましょうよ」
「うう……お絹ちゃん……」
ぐすん、と父は幼児みたいに鼻をすすって、その屈強な体型に似合わない動作があまりにおかしいものだから、千里と絹代はどっと笑った。
当の本人は、「何で笑うんだ?」と無自覚のようで首を捻っている。
しかし、二人は堪え切れずに弾けるように笑うものだから、千尋も釣られてにへらと笑った。
電子笛の音が鳴り響く。
線路の端から電車の頭が見えた時、どくん、と千里は今までにない強い鼓動を感じた。
大量の唐辛子スプレーを(無理やり)詰め込まれたパンパンのリュックを背負い直して、見送る二人に対して向き直る。
「お父さん、絹代さん、体に気をつけてね」
「千里ちゃんもね。いつでもここで待ってるからね」
「ありがとうございます!」
絹代は母性溢れる眼差しで、千里に微笑みかけた。
「ち、千里ぉ……」
引っ込んだばかりの涙がまた溢れそうになるのを、意を決したのか、父はゴシゴシと袖で目を拭った。
そして、腫れぼったい黒目がちの瞳が、にこりと細めて、歯を見せて、父は溌剌と笑う。
「千里!! 元気でな!! お父さんはずっとお前のこと愛」
ぎゅっ、と、耳たこの台詞が飛び出る前に、千里は父の胸に抱きついた。
震える指先を見ないでと拳を握って、こんならしくない顔を見ないでと父の胸に顔を埋めて、握り拳のまま、ぎゅうぅっ、と、父の背中を強く抱いた。
「ち、さと……」
「お父さん………ありがとう………愛してる………」
十八年分の感謝の言葉は、潤み声なうえにみっともなく掠れてしまったけれど、それでも、
父の鼓動がどくんと聞こえた。
それが安心材料になって、希望になって、視界は真っ暗なはずなのに光になって、
千里は、顔を埋めたまま少し笑ってから、それと、と続ける。
「絹代さんのこと泣かせたりしたら、許さないからねっ」
「千里………お前、まさか………」
我ながら子供じみた脅迫だな、と思って、自嘲めいた笑みがこぼれた。
だけど、揉みくちゃに隠した両目は、きっと濡れている。
父の渋い匂いがする服にまで、びっしょり濡れている。
だからもう、一ミリも振り返らずに、衝動のまま電車に駆け込んだ。
扉が閉まる前、背中を向けたホームから父の雄叫びが飛び込む。
「千里────っ!! お父さんも愛してるぞ────っ!!」
乗客たちがビクつく中、耳たこの台詞が、頭に響いた。いつもならうんざりと聞き流していたくさい台詞が、いたずらな魔法のように脳裏に焼き付いて、刹那、千里は子供みたいに泣きじゃくった。絶世の美少女なんて親バカから感嘆された顔が、くちゃくちゃに歪んで涙に塗れた。
今日は眩しいくらいの青空日和だ。ゆっくりと発車した電車の窓から、神社にそびえる巨大な御神木の樹冠が視界に映る。瞬間、幼き記憶が脳裏に蘇った。
『千里! この御神木にお願いすると、神様がお願いを叶えてくださるんだぞ!!』
『すごいすごいっ!!』
『お父さんと一緒に祈るぞーっ! 千里!」
『うん!!』
ぱんぱんっ! と両手を合わせて、両目を閉じ、父子は祈った。
少ししてから、千里は目を開けると、父はいつもの野蛮な表情とは打って変わって、神妙な顔つきで手を合わせていたたので、固唾を飲んで見上げていた。長いこと祈り続ける父に痺れを切らして、千里はどんどんっ! と足踏みする。
『お父さんお父さん!! 何を祈ってるのー?』
父は目を開けると、にかーっ、と歯を見せて笑う。
『もちろん! 千里がいつまでも健やかで幸せにいられますようにってな!!』
そんな父に釣られて、千里も、にかーっ、と笑い返した。
『千里は何を祈ったんだ?』
『えっとねー、千里はねー』
弾むような口調で両手をぶんぶん振り回して、千里は言ったのだ。
『ずっと、ずーっと、お父さんと一緒にいられますようにって!』
御神木が遠ざかってゆく前に、千里は涙を降らしたまま、両目を瞑り、手を合わせ、祈った。
ねえ神様、わがままな私を許してください。
あの時のお願いを、やり直させてください。
ねえ神様、お願いします。
お父さんを、いつまでも健やかに、幸せにしてあげてください。
うざったいほどたくさんの愛情をもらいました。贅沢なくらいの大きな幸せをもらいました。
こんなわがままな私のために、汗水垂らして文句も言わずに働いてくれました。両親がいる子供に負けないくらい、楽しい思い出をくれました。
ねえ神様、お願いします。
この涙の数だけ、お父さんに幸せをあげてください。
それはもう幸せで幸せで、私がもらった抱えきれないほどの幸せと同じくらい、優しい二人の、素敵な恋が開花しますように。
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