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布団叩きとハエ叩きの戦いから、一年近くが過ぎていた。
そんな、ある日のこと。
布団叩きが、世帯主の山田一郎の娘の、「衛生的にハエ叩きと一緒の場所に置くのは、駄目でしょ」という一声で物置に住居を移すこととなった。
冷蔵庫と壁の隙間から引っ張り出されるときに布団叩きが、「俺がいなくなっても、変わらずに頑張るんだぞー!」と叫んだ。
「嘘だと言ってくれよ! 急にお別れなんて、辛すぎるよ!」
鮮やかなブルーのハエ叩きは、泣き叫んだ。
世帯主の山田一郎の娘が、布団叩きを連れ去る。
「俺のダチを返せー!」
鮮やかなブルーのハエ叩きは、力の限り叫んだ。
「もう、何も言うな。これは、運命なんだからさ」
遠ざかりながら、布団叩きが諦めるように言った。
それから、鮮やかなブルーのハエ叩きが布団叩きに会うことはなかった。
翌日。
トラブルは、またしても、山田家の冷蔵庫と壁の隙間で起きた。
世帯主の山田一郎が、「殺虫剤とハエ叩きは、同じ場所の方が探しやすくていいな。同じカテゴリーだし」と呟いて、殺虫剤を、鮮やかなブルーのハエ叩きの隣に置いたのが発端だ。
「初めて見る顔だな」
鮮やかなブルーのハエ叩きは、気さくに話しかけた。
「……」
「おい、無視するのか? 何か言えよ、挨拶してやってんだからさ」
「……」
「恥ずかしがり屋なのかな?」
「……」
「オイ、新入り! シカトかよ!」
「気安く話しかけんなよ、おせっかい野郎が」
「あ? 俺、キレたら怖いぜ」
鮮やかなブルーのハエ叩きは、本当にキレそうになっていた。
「本当にキレたら怖いやつは、そんなこと言わねえから」
「言ってくれるねえ」
鮮やかなブルーのハエ叩きは、もう我慢の限界だった。
「口だけか。早く、やれよ」
と殺虫剤は、フッと笑う。
そのとき、世帯主の山田一郎が、「うわっ、ハエ飛んでるよ」と叫んで、鮮やかなブルーのハエ叩きがつかまれて引っ張り出された。
直後に、パチーン、バキッと大きな音がした。
世帯主の山田一郎の「くそっ、これ捨てるの面倒だな」と残念そうに言う声が聞こえた。
「まさか、あ、鮮やかなブルーのハエ叩きのヤツ。折れちまったのか」
殺虫剤は動揺した。
冷蔵庫と壁の隙間から、一瞬だけ真っ二つになった鮮やかなブルーのハエ叩きの姿が見えた。
鮮やかなブルーのハエ叩きは、呻きながら遠ざかっていく。
「あいつ、強度が……低かったからか」
殺虫剤は、自分もいずれはガス欠になる運命なのだと悟った。
次の日、新しいハエ叩きが冷蔵庫と壁の隙間に入って来た。
鮮やかなイエローで、昨日折れた鮮やかなブルーのハエ叩きとは雰囲気が違う。
「初めまして。緊張してるのかい?」
殺虫剤は、優しく声をかけた。
「はい、少し。これから、よろしくお願い致します」
鮮やかなイエローのハエ叩きは、謙虚な態度だ。
「最初は緊張するさ。俺も、そうだった」
「この家に来て、長いんですか?」
「いや、わりと最近に、来たばかりだけど」
「えっ、そうなの? じゃあ、敬語使わなくてもいいよな」
鮮やかなイエローのハエ叩きの態度が、一変した。
「……」
「おい、敬語使わなくてもいいよな?」
「……」
「あれ? 黙り込んで、どうしたー? 本当は、恥ずかしがり屋なのかなー?」
「……」
「オイ! シカトかよ!」
鮮やかなイエローのハエ叩きがキレた。
「実は、シャイな性格なんだ。こんな俺だけど仲良くしてくれるかい?」
殺虫剤は、爽やかな笑顔で言った。
「当たり前じゃねえか。仲良くやっていこうぜ」
「……ありがとう」
「礼は、いいって」
殺虫剤は、昨日、一度だけ物置で会話した布団叩きが言ってたことを思い出した。
「もし、鮮やかなブルーのハエ叩きに会うことがあったら、決して甘くみるな。最後まで生き様と死に様を、注意深く観察しろ」、と布団叩きは遠くを見ながら、殺虫剤に警告した。
思い返せば、あの眼差しは、冷蔵庫と壁の隙間を見ていたのだろう。
「布団叩きの言ってた通りだ。あんた、ただのハエ叩きじゃなかったんだな。俺は、あんたから大切な事を学んだ気がするよ。生死ってのは、実に学びが多いな」
「えっ? 俺、普通のハエ叩きだけど? 急にどうした?」
「お前に言ったんじゃ、ねえよ」
殺虫剤は成長した自分に気付きながら、そう言った。
(了)
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