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(二・二)マスク
朋子だけが、いつも独り。その中でも朋子は、自分なりの慰めを見出した。園内には花壇があったし、兎小屋があった。朋子は季節の草花を愛で、兎を世話した。花や兎が、朋子を恐れる筈もない。風に揺れる花はにこにこ朋子に笑い掛けているようであり、兎たちは他の誰より朋子になついた。
しかし六月。梅雨入りの頃、朋子に関して園児の親たちが、集団で園にクレームを上げた。
「うちの子が、怯えて困っています」
「あのお子さんを、退園させて下さい」
応対した園田は、朋子をかばった。
「けれど雪川朋子さんは、大変お行儀が良く、草花や兎の面倒をみる、とても心の優しい子です。他の園児さんたちには、控え目に接していらっしゃいますが……」
しかし親たちは、後には引かなかった。
「それは分かっています。でもうちの子は家にいる時、あの子の顔を思い出すと、恐いと言って泣き出すんですよ」
「うちの子もそうです。あの子の顔が浮かんで来て恐いからと、一人でトイレにも行けなくなりました」
「もし子どもたちの成長に悪影響が出たら、責任を取ってもらいますよ。よろしいですか?」
父兄たちに詰め寄られ、流石の園田も針のむしろ状態。
「分かりました、分かりました。どうか皆さん、落ち着いて下さい。では今度、雪川さんのご両親に話してみます」
早速幼稚園に、健一郎と夏江が呼ばれた。
「どうも親御さん方、朋子さんから受けたショックが、園児たちの心的外傷になるのではないかと、心配なさってらっしゃるようで。わたしとしては、少々気にし過ぎじゃないかと思うんですがね。何しろ父兄のみなさん、毎日のように来園されまして……」
「ご迷惑お掛けして、すいません」
先ずは頭を下げる夏江。
「心的外傷、ですか」
ため息を零す健一郎。園田の望みは、分かっている。朋子に幼稚園を、辞めて欲しいのだ。朋子独りのために、幼稚園全体の秩序が乱れてはかなわない。誰だって、そう思うだろう。
「分かりました。朋子の気持ちを、確かめてみます」
朋子を園長室に呼び出し、夏江が簡単に事情を説明した。そして問い掛けた。
「ね、どうしよっか、朋ちゃん。幼稚園、もう辞めちゃう?」
「おいおい、夏江」
急かすような夏江を、健一郎が咎めた。
「朋子、急がなくていいからね。ゆっくり考えて、決めればいいんだから」
ところが朋子は即答した。自分の為に親や園長先生が苦労していると、分かったからである。
「朋子、辞めてもいいよ」
寂しげに俯く朋子を、三人の大人は見つめた。
「朋子さん。あなたは本当に、心のやさしい人ですね。わたしは、あなたが大好きですよ」
泣きそうな園田に向かって、朋子はにっこりと微笑んでみせた。微笑んで……。そう、その時確かに、朋子は笑ったのだった。
「園長先生、ありがとう。朋子も、先生のこと、大好き」
それは三歳の時に自分の顔を恐がって以来、ずっと失っていた、久方振りの朋子の笑顔であった。
朋子の健気な言葉と笑顔に、園田は思わず男泣きした。もう一度、父兄を説得してみよう。園田は心に誓った。
「皆様、確かに大切なご子息の心に、心的外傷が残るやも知れません。しかし今、雪川朋子さんが幼稚園を去ることになったら、皆様のお子様方がやがて大人になられ、そして振り返った時に、どう思われるでしょう。もしかしたら自分たちが、彼女を幼稚園から追い出してしまったのではないか。そんな後悔の念に、苛まれはしないでしょうか。朋子さんの顔を見れば、誰しもショックを受けるでしょう。正直、わたしもそうでした。でも彼女は、人に負けないやさしさと温かな心を持っております。それが証拠に、皆さんのご意見をお伝えしました時、朋子さんは即座に、幼稚園を辞める、と自ら申し出たのであります」
ざわめく父兄たち。
「園長先生のおっしゃることも分かります。しかし現実として今、子どもたちは怯えているのです」
「確かに、みんな、まだ幼い子どもなのですから」
「そうだ!」
「どうなさいました?」
「はい、先生。どうでしょう?子どもたちは、あの大きな唇が一番恐いと申します。ですから、もし可能でしたら、マスクか何か、掛けてもらって……」
「マスク、ですか?」
「はい。勿論顔全体のでなくて、風邪を引いた時に掛ける、あの白いマスクですよ」
「ああ、あれですね。ああ、成る程ねえ。じゃ、雪川さん家族と相談してみます」
その旨を伝え聞いた健一郎と夏江は、なぜ朋子だけ、と屈辱と不満を覚えた。が当の本人朋子は、けろっとした顔で頷いてみせた。
「いいよ、朋子。マスクして、幼稚園に行く」
よし、決まった。園田は安堵した。
なぜ朋子はそうまでして、幼稚園に行きたかったのか。それは朋子が、梅組のみんなのことが、大好きだったからである。
翌日から朋子は大人サイズの白いマスクを掛け、嬉々として幼稚園に通い出した。これでもうみんなから、嫌われずに済む。そう思えたことが、嬉しかったからである。こうしてマスクを着用する、朋子の日常生活が始まった。
年長組になる頃には、子供たちも朋子の顔に慣れたのか、もう朋子の顔を恐がる子はいなかった。それどころか朋子に話し掛けたり、一緒に遊ぶ子さえ出て来た。そして卒園式では朋子との別れを惜しんで、みんなが泣いた。こうして朋子は無事、品川坂之上幼稚園に通い続け、そして見事、卒園したのだった。
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