(三・二)絵画クラブ

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(三・二)絵画クラブ

 三年生に進級すると、クラス替えが行われた。二年間孤立し、担任の緒方とも殆ど交流のなかった朋子に、旧クラスへの未練はなかった。  朋子の新しいクラスは、三年五組。担任は野田響子という、油絵を趣味とする才色兼備な若い女性だった。彼女は情熱的な芸術家タイプで、学校内の絵画クラブを主宰し、放課後熱心に子どもたちに絵を教えていた。野田は、自分が何かと話題になる朋子を受け持つと分かった時、決して悲観的にならずポシティブに捉えた。かと言って殊更朋子を、特別扱いすることもなかった。  普段の授業での朋子は、以前と変わることなく陰で「ダダ」、「ダダ子」と呼ばれ、相変わらず孤独な少女だった。そんな朋子を、野田は絵画クラブに誘った。 「雪川さん。興味がありそうなら、放課後、クラブの様子を見においで」  朋子は素直に応じた。図工室の一番後ろから、クラブの生徒たちの姿を眺めた。その日は、花瓶に活けられた薔薇のスケッチをしていた。子どもたちはスケッチに没頭し、朋子がいることすら気付いていなかった。 「雪川さん。あなたも、ちょっと描いてみたら」  えっ。野田の問い掛けに、朋子は動揺し顔を強張らせた。しかしきらきらした瞳で、一心に筆を動かしている生徒たちの姿に感化されたのか、朋子は遂に頷いた。 「はい、先生」 「OK」  野田はにこにこしながら、最後尾の机に朋子の場所を用意し、画用紙と絵の具を与えた。朋子は緊張しながらも、一心に描き始めた。  我を忘れ、朋子は美しい薔薇の姿を描写した。それは繊細な線による正確な描写と、消えかかる虹のような淡い色彩の絵だった。 「雪川さん、上手いじゃない。にこにこ微笑んでいる薔薇たちの笑い声が、聴こえて来るみたい」  称賛の後、野田は続けた。 「確かに薔薇は美しいけれど、華は直ぐに枯れてしまうから……。わたしは世の中で一番美しいものは、人の心の美しさじゃないかって、いつも思ってるの」  朋子は黙って、野田の横顔を見つめた。 「だってどんなに時が流れても、心は枯れないでしょ。絵というのは、そんな人の心の美しさが、出るものなんじゃないか。わたしは、そう信じているの。だからこうしてわたしは、絵を描いてるわけ」  にこっと微笑む野田の顔の表情が、眩しくてならない朋子だった。わたしも、こんな素敵な大人の女性になりたい。朋子は、野田の言葉に同意するように頷いた。 「遠慮しないでいいから、またおいで」 「はい、先生」 「絵が好きな人はみんな、このクラブの仲間よ」  仲間。恥ずかしそうに頷く朋子の笑顔を、野田は美しいと思った。  以後、朋子は休むことなく、絵画クラブに通った。そして三年生、四年生の二年間を野田に見守られながら、朋子は過ごした。相変わらず生徒の中で、朋子に積極的に話し掛ける者はいなかったが、無視したり、からかう生徒もいなかった。孤独ではあったけれど、朋子にとっては楽しい穏やかな毎日だった。  であるから、五年生になったらまたクラス替えがあるけれども、朋子は再び野田のクラスになりたいと切望していた。しかしその願いは、儚くも潰えた。野田は五年生の担任になるどころか、品川白山小学校を去り、近くにある知的障害者の養護学校、品川白山学園に移動したからである。しかもこの移動は、以前から野田が希望していたことであるから、どうにも致し方なかった。  野田との別れ。この辛さは、朋子が人生で初めて味わう他人との別れの辛さであった。それでも何とか、悲しみは癒えた。しかし五年生になると野田を失った朋子にとって、教室は再び、孤独な冷たい空間に逆戻りした。大人へと一歩近付いた同級生たちの、朋子を見る眼差しは、以前にも増して厳しく冷たくなっていた。ダダ子の仇名でひそひそ陰口が囁かれ、朋子に接する時のよそよそしさも増した。野田の喪失は、品川白山小学校にとって絵画クラブの喪失でもあったから、朋子は折角得た、絵を描く楽しみも失った。  五年四組。朋子のクラスの担任東武京子は、一、二年時担任の、緒方教師に似たタイプの中年女性だった。面倒臭いことには関わり合いになりたくない、事なかれ主義に徹していた。そして新しいクラスにも慣れた、五年生の夏から冬。五年四組の教室の中では、数人の男子による、朋子へのからかいが頻繁に行われた。 「ダダ子ちゃーーん」  休み時間、窓側の最後部にある朋子の席の周りに集まって、彼らは大声で呼んだ。朋子は怯えながら、ひたすら下を向いて、じっと我慢した。 「あれえ、おかしいなあ。ダダ子ちゃんいるのに、返事がなーい」  そう言って、みんなで大声で笑った。担任も他のクラスメイトも皆、見て見ぬ振り。なぜなら自分がからかいの対象となるのを、恐れたからである。  だから朋子は、ひとりぼっちで耐え忍ぶしかなかった。教室という四角いジャングルの中の、孤独な戦いである。しかしその甲斐あってか、男子たちは朋子をからかうのに飽き、二学期の終わりには、遂に嫌がらせを止めてしまった。  それでも朋子がクラスの中で、特別な存在であることに変わりはなかった。相変わらず朋子に接近し話し掛ける生徒はおらず、誰も朋子のことを話題にしなかった。結果、朋子は孤立したまま、小学校の卒業式を迎えるに至ったのである。  小学校以外の日常生活に於いても、朋子は孤独だった。多感な少女期に於いて、朋子は周りから見られること、そして同じ年頃の少女たちとの違いを、気にするようになった。結果、外出を厭うようになった。健一郎と夏江の誘いや励ましも効果はなく、孤独と沈鬱の中、朋子の小学生生活は、何とか終わりを告げたのである。
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