(四・二)地獄

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(四・二)地獄

 中学校での屈辱と苦悩の感情を、帰宅した朋子は、健一郎と夏江のふたりにぶつけた。それまでは、どんなにいじめられても決して学校でのトラブルを、家には持ち込まなかった朋子。しかしそれもとうとう、限界に至ったという訳である。  どうしてわたしばかり、こんなに毎日、苦しい思いをしなきゃいけないの。わたしが一体、どんな悪いことをしたの。何も悪いことなんかしてないのに、ただ生まれつきこんな醜い顔だったばっかりに。わたしはこんな、地獄のような毎日を生きなきゃならない。  地獄!そうよ。こんな顔に生まれて来たばっかりに、わたしの人生は地獄そのものだわ。どうしてこんな顔に、わたし、生まれて来ちゃったの。  その怒りを、朋子は目の前の夏江にぶつけた。 「お母さん。どうしてわたしなんか、産んだのよ」 「どうしたの、朋ちゃん?急に」 「朋子、落ち着くんだ」  普段大人しい朋子の突然の爆発に、健一郎と夏江はうろたえるばかり。しかし遂に来るものが来たか、という思いも、ふたりの心の中にはあった。 「こんな顔じゃわたし、結婚も出来ないじゃない。わたしを好きになってくれる人なんか、世界中何処を探したって、絶対見つからないから」  朋子の目から、涙が止め処なく溢れ出した。 「朋ちゃん、何か辛いことがあったのね。話して、お父さんとお母さんに」 「話したって、わたしの気持ちなんか、誰にも分かりっこないわよ。どうして、わたしなんか産んだの。どうして産む前に、止めなかったのよ。わたしを産む前に」 「朋子」 「朋ちゃん、それは……」  言葉に詰まりながらも、丁寧に説明しようとする健一郎と夏江。しかし朋子は、聞く耳を持たない。それどころか怒りに任せ、狂ったようにふたりを責め立てるのだった。 「どうしてわたしを、殺してくれなかったのよ。こんなことになるんなら、一思いに殺して欲しかった」 「そんな、朋ちゃん」 「朋子」  泣き崩れる朋子を、ただじっと、見つめるしかないふたりだった。  この夜を境に、雪川家は夜の闇に沈んだ。朋子は学校以外への外出を一切しなくなり、部屋に閉じこもった。自分の顔を世間に曝け出す眩しい太陽を憎み、部屋のカーテンは閉め切ったまま。一年中まっ暗な夜ならどんなに良いだろうと、そんなことばかりを朋子は願った。  中学が夏休みに入っても、健一郎と夏江を責める朋子の言葉は、休むことなく続いた。 「どうして、わたしを産んだの」 「わたしなんか、さっさと殺してよ」  そんな朋子にとうとう耐え切れなくなった健一郎は、八月の或る晩、朋子にこう告げた。 「そんなに朋子が死にたいなら、みんなで一緒に死のうか」 「あなた」  朋子も夏江もぽかんとした顔で、健一郎を見つめた。 「夏江も、もういいだろ。俺、疲れちゃったよ」  すると健一郎の言葉に、夏江も頷いた。 「そうね。いいわよ、あなた。みんなと一緒なら」  驚いたのは朋子。両親の顔を交互に見つめながら、戸惑い、焦った。 「でも、今すぐという訳にはいかない。お父さんにも仕事があるから。俺が会社を辞めてから、ということで良いかな、朋子?業務の引継ぎに、一ヶ月は掛かるから」  朋子としても、今更後には引けない。動揺を隠しつつ、健一郎に答えた。 「いいわよ、それ位なら」  一ヶ月後ということは、二学期が始まって直ぐの頃。それ位なら、我慢出来る。朋子には、死ぬことの恐怖よりも、あの地獄から解放される喜びの方が、遥かに大きかった。  日々、一家心中のその時へと近付く雪川家は、毎日がお通夜のように沈んでいた。夏休みだというのに、朋子が外に出ることもなかった。  自室に閉じこもり切りの朋子が、唯一興味を抱いていたものは、虫に関することだった。閉め切った部屋の中でも、外の世界の蝉時雨が聴こえて来る。蝉の幼虫が殻から出て成虫になったり、醜い毛虫がさなぎになり、やがて美しい蝶になる。そして蝉も蝶も羽根を広げ、地上から飛び立ってゆく……。朋子はその変化、現象に憧れたのである。  わたしもあんなふうに、変われたら良いのに……。  しかしそれは今は叶わぬ願い、夢物語でしかなかった。
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