ビバ!焼肉

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「5番テーブルの客、肉食ったことないらしいぞ」  バイト仲間のタツキが首をひねりながら戻ってきて、ソウタにささやいた。 「まさかぁ」  平日の昼下がり、ランチタイムが過ぎた焼肉店は客もまばらだ。店内にいる客はそれぞれのテーブルについて、遅い昼食をとっている。  仲が良いのか悪いのか微妙な距離感の老夫婦に、営業回りの途中らしき二人連れのサラリーマン。あとは、ソウタが老夫婦の注文を受けている間に入店した、男性のひとり客。  タツキの言葉に、ソウタは背伸びして5番テーブルの方を見やった。各テーブルに立てられた衝立越しに、男性と思われる後頭部がのぞいている。あそこはひとり客だ。席への案内や注文はタツキが担当していたはず。 「今どき、肉食ったことない人なんているか?」  お調子者のタツキが、またわけのわからない冗談を言っているのだろうと思い、ソウタは相手にしなかった。 「いや、だってさ、肉食って泣いてんだよ。『おお!これが牛の肉!!』つって」  タツキは自分の手の甲をまぶたにあて、泣き真似をしてみせる。 「おい、声が大きいぞ」  換気扇の音が響く店内だが、店員の私語は意外と目立つ。ソウタは大袈裟な身振りで真似をするタツキをたしなめた。  まかない目当てでバイトを始めたばかりのタツキは、いまだに仕事をサークル活動かなんかだと勘違いしているんじゃないだろうか。ソウタは普段からタツキの不真面目な接客態度にヒヤヒヤさせられていた。  慌てて店内を見渡したが、客たちは特に気にする様子もなく黙々と箸を動かしている。 「もしかして、高級肉が初めてなんじゃないか?注文って特選だったっけ?」  ソウタがタツキに顔を寄せて小声で言うと、タツキもそれに合わせて小声になる。 「いや、並カルビ」 二人はますます首をひねった。  その時、オーダーチャイムが鳴り、厨房前の電光板に「5」の数字が点灯した。 「お!」 それを見てタツキが嬉しそうに声をあげ、足早に5番テーブルへ向かう。  その嬉々とした背中を見て、ソウタは不安を覚えた。ふざけて客に失礼な態度をとらなきゃいいけど。  ソウタの心配をよそに、すぐにタツキは足どりも軽く戻ってくる。  そして厨房に向かって、 「わいわい四種盛りふた皿です!」と叫んだ。 「ひとり客だろ?」 「そう。でも肉しか食ってない」 「ライスは?」 「なし」  どういう食い方してんだよ。 ソウタはなかば呆れた気持ちになった。  焼肉店でバイトを始めて一年になるが、そんな食い方をする客はめったにいない。  厨房係が取り分けた肉を、タツキはスキップするかのような足どりで運んでいく。すっかり面白がってる様子だ。  17番テーブルの老夫婦が帰り支度を始めているのに気付き、ソウタは素早くレジに立って会計の準備をした。  客が帰っていくのを見送ると、また厨房前に待機する。タツキはぼんやりと立ったまま、まだ5番テーブルの方を見ていた。 「なんで今まで肉食ったことなかったのかなぁ、あの人」  どうやらタツキは、本当にその客が肉を食べたことがないと信じ込んでいるようだ。ソウタはというと、だいぶ懐疑的だ。 「ベジタリアンか、お寺の住職とか?」 「え、お坊さんて肉食わないの?」 タツキが目を丸くしてソウタを見る。 「精進料理とかあるだろ、堂々とは食えないんじゃね?」  僧侶が普段から何を食っているかなんて、気にしたことはない。ソウタが当てずっぽうな知識でそう答えると、タツキは何かを思い出すように顎に手を当てた。 「そうかなぁ?親父の友達が寺の坊さんなんだけど、こないだバーベキュー行ったって言ってたぞ」 「ま、世の中いろんなお坊さんがいるからな」 破戒僧とか、生臭坊主とか。知らんけど。 「うーん、でもやっぱ坊さんではないと思うな。髪もふさふさだし、服はスーツだ。しかもベストまで着てる」  そういう坊さんもいるだろ、とソウタは言いかけて、さすがに無理があると思い口をつぐんだ。  再びチャイムが鳴り、電光板に「5」の数字が点いた。 「俺が行く」  ソウタは、飛んで行こうとしたタツキをすんでのところで制した。  どんな客なのか、この目で確かめてやる。  5番テーブルには、男性が一人で座っていた。  なるほどタツキが言ったとおり、お坊さんには全く見えない。年齢は五十代前半くらいだ。毛量の多い黒々とした髪を丁寧に撫でつけ、太い手首に目立つ大きめのブランド時計をつけこなしている。仕立ての良さそうなスーツは上品な雰囲気だが、身なりに似合わずギラついた、眼光の鋭い顔つきがどこかアンバランスに思えた。  この顔、どこかで見たことがあるような。気のせいだろうか。  ソウタがテーブルの横に立つと、客はメニュー表から顔を上げ、ソウタの顔を見た。そして、胸の名札を一瞥してからまたソウタを見上げる。  ソウタが何か言う前に、男は大真面目な顔で口を開いた。 「わいわい四種盛りに入っていたあの白いぷにぷにしたやつ、あれを単品で頼みたいんだが」 「あ、ホルモンですか?」 「ほるもん?君が言うならそうなんだろうな。それを頼む」 「かしこまりました。他にご注文はございますでしょうか?」 「そうだな、オススメはあるかい?」  オススメ、と言われて、ソウタの中でイタズラ心がむくむくと湧きおこる。 「こちらの、旬の野菜の盛り合わせなどはいかがですか?」  メニューの写真を手のひらで示しながら言うと、客はあからさまに顔をしかめた。 「いや、野菜は食べ飽きてるんでね」  やっぱりベジタリアンだ。どういう理由か知らないが、こっそり肉を食いに来てるわけだ。 「とにかく肉がいい。じゃあこれにしよう。わぎゅうじょうハラミ?」  客は目を細めて、文字を確認しながらゆっくりと読み上げた。 「和牛上ハラミですね。かしこまりました」  厨房へ戻ろうとすると、男が何か話したげに見上げてくるのでソウタは足を止めた。 「君はなかなか利発そうだな。大学生かい?」 「はい。ありがとうございます」  客と雑談するのは面倒だと思いながらも、ソウタは一応、礼を言っておいた。  すると客は、ソウタの方へくるりと上半身を向け、思いもよらないことを言ってきた。 「ところで君、焼肉店で働いているくらいだから、メタンの環境破壊については承知しているんだろうね」 「はい?メタン?」 「おいおい、何も知らずに働いているのか。この時代の若者はのんきだなぁ」  そう言って、呆れた様子でため息をつく。  若者に説教したい中年オヤジか。ますます面倒だ。 「まさか知らないとはな。教えてやった方がいいか…どうするかな」  話が長くなりそうな気配を感じて、ソウタは足を引いて去る仕草をした。それを見て男は慌てて言葉をつなぐ。 「待て待て、大事なことなんだ。地球の未来に関わる非常に重要な話だ」 「はぁ」  ヤバイやつに捕まっちゃったな、と内心ソウタは舌打ちした。だが客である以上、無下にもできない。 「今は西暦何年だね?」 「はぁ、2022年ですよね」 「なるほど、ふむふむ」  客は何かを考えるようにうなずいて、それから重大発表をするかのように大きく目を見開いてソウタを見上げた。 「今から30年後の未来、世界的に牛肉を食べる行為が禁止になる」 「へぇ、そうなんですね」  しらっと受け流すと、客はムッとした様子で口を尖らせた。 「信じてないな?」 「そんなことないですよ」  我ながら棒読みだなとソウタは思った。 そもそも、いきなり未来の話をしておいて信じる信じないもないと思うのだが。  しかし客が不機嫌そうなので、ソウタは仕方なく調子を合わせることにした。 「さっきのメタンだかなんだかの環境破壊の話と繋がってるんですかね」 「さすが!その通りだよ。やはり日本の大学生は昔から優秀だな!」  男はとたんに嬉しそうにひとつ手を叩くと、得意げに話し出した。 「メタンとは、温室効果ガスのひとつなんだ。地球温暖化に非常に大きな影響を及ぼす。温室効果ガスで有名なのは二酸化炭素だが、メタンは二酸化炭素の約25倍もの温室効果があると言われている。非常に厄介な存在だよ。では、メタンと牛肉がどう繋がってくるか、知っているか?」 「いえ、知りません」 うんざりしながらもソウタは首を振る。 「牛には胃が四つあるだろう」 「それなら知ってます。ミノ、ハチノス、センマイ、ギアラですよね」 「ほう、さすが優秀な焼肉屋だな」  優秀な焼肉屋ってなんだよ、と思いながらも褒められれば悪い気はしない。いいように乗せられている自覚がありながらも、ソウタは男の話に少しだけ耳を傾けた。  男はしたり顔で続ける。 「牛が食べる牧草の主成分であるセルロースは非常に消化しにくいんだ。その牧草を、牛は四つの胃でゆっくりと消化していくんだが、まず第一の胃、ルーメンで、エネルギーとして吸収できるよう発酵させる」  そこで男は皿に残っていた肉を箸でつまんでパクリと頬張った。 「その発酵の過程で、牛の胃の中にいる微生物が発生させたメタンが、牛のゲップとなって外に出る」  ソウタは男が話に合わせて本当にゲップしたらどうしようかと警戒したが、さすがにそれはしなかったのでほっと息をついた。 「たかが牛のゲップくらい、たいした量じゃない、そう思うだろう?」 「えぇ、まぁ、そうですね」  ソウタは適当に相槌をうつ。男は調子が出てきたのか、身振り手振りを加えながら勢いよくまくし立てる。 「ところがどっこい、過去の研究データによると2010年代で世界の家畜牛の頭数は約14億強。すると地球上の牛がゲップとして排出するメタンの総量は、二酸化炭素に換算すると年間でなんと、20億トンにものぼる計算になる。これは先進国一国分の温室効果ガス排出量に匹敵する量なんだ。どうだ、たかがゲップといえど看過できない数字だろう」 「そうですね」  ソウタは興味のない様子を隠さず返事をする。これ以上話が長くなると仕事に影響するのだが。ホールで動けるのがタツキだけ、というのも心配だ。 「まぁ、この時代でも温暖化対策はそれなりに行われていたはずだが、君のその様子じゃ人類が危機意識を持って行動するのはまだまだ先の話、というのも無理もないな」 「はぁ」 褒めたりディスったり忙しいな、この人は。  不服そうなソウタをよそに、男は思案深げに話を続ける。 「人類は、温暖化対策を掲げつつ、二酸化炭素を排出し続けた。人口増加に伴い、温室効果ガスの排出量は右肩上がりだ。増え続ける人の腹を満たすために森林を伐採し、牧場を拡大させ、家畜牛をさらに増やし、牛肉を消費し続けた」  テーブルの上に肘をつき、指を組んで、男はそこにたるんだ顎を乗せた。神妙な顔つきながら、その様子がお母さんを待つ小さな子どものように見えて、ソウタは笑いを飲み込んだ。 「その結果、2050年には世界の家畜牛の総数は25億頭にまで膨れ上がり、地球面積の実に3分の1が牛の放牧や、飼料の栽培のためのプランテーションに使用されるようになったんだ」  そこで、男は唐突に黙り込んだ。しばしの沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。 「そしてついに、温暖化が人間の命を奪い始める」  男はわざとらしく顔を曇らせる。 「大型台風やハリケーンが頻発し、同時に、海面上昇による水害も人々を悩ませた。一方、各地で砂漠化が進み、未知の伝染病も増加、これにより多くの人々が亡くなった」  悲痛な面持ちで言葉をつないでいた男が、パッと顔を上げ、ソウタを見る。ソウタも男の目を見つめ返した。 「そこでようやく、人類は重い腰をあげる」  最初こそギラついて見えた男の瞳が、なぜか今は純粋に輝いて見える。 「西暦2051年、まずはフランス、イギリスが、今ある食肉牛の消費を最後に、今後の家畜牛の繁殖の一切を禁止とした」  男はソウタの目をしっかり捉えたまま続ける。 「翌年、これにドイツが続き、次いで渋々ながらアメリカ、オーストラリアがその政策に加わる。アメリカが禁止政策を発表すると、日本もすぐに牛肉禁止の世界情勢に乗っかった」  そこで男はふっと息をつく。 「私は幼い頃、一度だけ牛肉の切り身を見たことがあったんだ。3歳かそこらだったから記憶は曖昧だが、その頃はちょうど牛肉禁止の黎明期だった。だからまだ、ギリギリお目にかかることができたんだろうな。今思えば、金を積んで手に入れた禁止肉だったのかもしれない」  男はじっと、皿に残った肉を見つめた。 「しかし私がそれを食べた記憶はない。大人だけで楽しんだんだろう。まったく愚かなことだよ、牛肉食の罪は重い。人生を棒に振るほどにな」  男は遠くを見やり、ため息つく。 「今や、研究目的以外での写真閲覧も禁止されているため、私の時代では牛肉そのものを見たことがある人間もまれになってしまった」  首を振ってうつむく男を、ソウタも何も言わずただ見ていた。未来のことを語るこの不思議な男のことを、疑いながらも徐々に受け入れ始めている自分がおかしくて、そんな自分をもう一人の自分が頭の上から見ている、そういう感覚だった。  ソウタの心中も知らず、男は淡々と話し続ける。 「家畜としての牛が世界から消えて、ステーキ、焼肉、ハンバーガー、あとは乳製品も根こそぎ消えた。牛乳やチーズもないから、シチューもピザも食べられない」 「それじゃ、何を食べてるんですか?」  思わず、ソウタは素朴な疑問を口にする。男は、いい質問だね、とでも言いたげにニヤリと笑った。 「牛肉と乳製品以外なら、過去となんら変わらないさ。豚肉や鶏肉はもちろん、魚だって自由に食べられる。家畜牛が減った分、米や小麦の生産量はアップした。日本人の主食は変わらず白米だし、タンパク源は大豆などで摂る習慣が昔からあったから、順応も早かった」 「なんだ、禁止されたのは牛肉だけなんですね」  それならそこまで食に困らないのでは、とソウタは思った。まぁ、焼肉屋は廃業だろうが。  ソウタの軽い反応に、男はとんでもない、とでも言うように首を振った。 「牛肉禁止に加え、未だ猛威を振るう伝染病の影響もあって健康志向が高まり、日本でもピュアベジタリアンが爆発的に増加したんだ。いわゆるビーガンだね。社会的な同調圧力も強く、今やどこの家の食卓も野菜オンリー。まぁ命あってこその食事だ。それに人類滅亡の危機を救うと思えば、我慢できなくはないがね」  言葉とは裏腹に、男は大きなため息をついた。 「しかしね、人々の中には、昔の牛肉食時代を懐かしむ者も少なくないのだよ。もちろん、豚肉や魚が禁止されているわけではないが、世の中の流れは完全にベジタリアンに傾いてしまっているからね。トンカツや寿司を食べられるレストランも減る一方なんだ」  男は燻る木炭に残るわずかな火を慈しむように見つめながら、切ない表情を浮かべている。  牛肉食の禁止に、同調圧力、からのベジタリアン転向か。現代に置き換えても、起こり得ないとは言えない事象だとソウタは妙に納得した。 「そこでだ」 突如、男が元気よく顔をあげる。 「どうしたら、かつてのように牛肉を自由に食べられるようになるだろうか。我々は懸命に考えた。そうだ!過去へ行って牛肉を思い切り食べればいいんだ!牛肉食が禁止される以前の時代にタイムスリップするのが一番てっとりばやいってね!」  男は瞳をますます輝かせ、得意げに胸を張った。 「…そんなに都合よくタイムスリップできるものなんですか?」  ソウタの質問に、男は語気を強める。 「牛肉を食べたいという人類の強い願いは、ついにタイムマシンの開発成功という大きな成果に繋がった。素晴らしい成果だよ!」  鼻息も荒く、誇らしげな様子の男に、ソウタは小首を傾げる。 「…本当かなぁ」 「何を疑う必要がある!現に、私が今ここにいる、それがなによりの証明だ!」  男とソウタはしばし黙って見つめ合った。 「…えっと」  キラキラと輝く男の瞳に吸い寄せられそうになりながらも、ソウタは冷静さを取り戻すよう、頭を巡らせた。 「それじゃお客様は、牛肉が禁止された未来からタイムマシンで現代にやってきた、そういうことですか?」 「いかにも、さっきからそう言っているだろう」 「…焼肉を食べるためだけに?」 「もちろん!それ以外に何があるというんだ」  男は自信満々でうなずいたあと、急に寂しそうにうつむいた。 「まぁ、自分で言うのもなんだが、こんなのは金持ちの道楽だな。ただの金持ちでは為し得ない、大富豪の遊戯というやつだ」  そう言ったあと、急に年老いたように哀愁を漂わせた。 「全世界を襲った未知の疫病に際し、私はオートマティック・パーソナルシールド、通称APSの開発に携わり、巨万の富を得た。しかし時遅く、家族や友人たちは皆、病で命を落とした…」  肩を落とし、しんみりとつぶやく。男がそれ以上話し出さないので、ソウタは一礼してテーブルをあとにした。  それから、ソウタが運んだホルモンと和牛上ハラミをきれいに平らげ、男は帰っていった。会計の際に口直しのミントガムを差し出すと、 「おお、貴重な!平べったいガムとはな」 そう言って大事そうに背広の内ポケットに仕舞いこんだ。  男が店を出ていくとすぐ、タツキがレジに立つソウタへ近寄ってくる。 「結局あのおじさん、何だったの?」 「さぁな」  男から聞いた話をタツキにしたところで、到底理解されるとは思えず、ソウタは口をつぐんだ。  後ろでタツキが、何を話してたんだよぉ〜とつついてくるのを無視して、ソウタはおしぼりの補充を始める。空いたテーブルを片付けて、炭の補充や網の洗浄など、夕方の忙しくなる時間までにやることはたくさんある。  男は店外へ出て、思い切り伸びをした。陽射しはあたたかく、街はのどかだ。首元に手をやり、ネクタイをゆるめる。ひと仕事終えた達成感はいつ味わっても心地良い。  しばらく通りを歩いていると、黒塗りの高級車がすっと近づいて男の横で停まった。運転手が降りてきて、後部座席のドアを開ける。男は黙ったまま乗り込んだ。  車は静かに発進し、街並みが流れ始める。 「大臣、今回の成果はいかがでしたか?」 運転手が前を向いたまま問いかけてくる。 「うん、まぁ、上々といったところかな」  男は腹をさすりながら、後部座席のリクライニングを倒した。 「しかし、最近の若い子たちは純粋でいいねぇ!未来は明るいよ」  豪快に笑うと、運転手も嬉しそうな横顔を向けてくる。 「では今回も、若者にカーボンニュートラルの重要性をうまく伝えられたということですね」 「まぁな、今回の若者はとりわけ賢そうだったからな、地球の未来について真剣に考えてくれるだろう」  男は満足げに何度もうなずいた。  緑の濃い木々が茂る日比谷公園を横目に大通りを抜け、車は庁舎の立ち並ぶ敷地内へ入っていく。  通用門の脇の駐車スペースに停車すると、運転手が回り込んで来て再び、後部座席の扉を開けた。  大臣室へ戻り、椅子に深く腰掛ける。すると、ひと息つく暇もなく、すぐに事務秘書官がやってきて次のスケジュールを早口に告げてくる。 「このあと16時からリモートで、再生可能エネルギーに関する意見交換会に出席、19時終了予定です」 「わかった」  男は背もたれに背中を預け、目を閉じた。環境大臣の職に就いてから一年、まとまった休みも取れないまま、気の張った生活が続いている。 「ディナーはまた、例のアレか?」 「はい、20時に六本木の香城苑を予約しております」 「ん」  聞いただけで、胃の奥から肉の脂が迫り上がってきそうだ。  ふと思い出して、スーツの内ポケットからガムを取り出した。デスクの隅に置いた箱の中へ適当に投げ入れる。そこにはガムや、ミント味の飴玉がいくつも入っていた。 「しかし公務とはいえ、これほど牛肉ばかり食うのはなかなかキツイな」  男は瓶に入った胃薬をざらりと手のひらに乗せ、口に放り込んで噛み砕いた。 (了)
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