第2章

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彼女達を好きになったのは、キラキラ輝いていたから。 どんなに過酷な企画でも、私が知ってるアイドルの形とは違っていても。私には彼女達が夢に向かって努力している彼女達が格好良かったから。 でも、見ているこっちも辛くなるぐらいの企画があったのも事実で、本気で応援するのを辞めようかと思った事があった。    飛び交う指導者の怒号で、自分の事を責める姿や度重なる過酷な練習で怪我や体調不良になってしまうメンバーもいて。その度に胸が辛くなった。  豆や筋肉痛ぐらいは、頑張っているな。と思えても、膝のサポーターや足首のテーピング。腰痛、熱中症、その他怪我。などで練習したり、ごめんなさい。と指導者に謝って練習を抜ける姿は見ている側として辛かった。  1番の理由は。私自身の経験が彼女達を見る事でトラウマを呼び起こされていた事。  私は運動が出来ない。というか、リズム感がない。 ボールは取りそこね、ダンスはどっかでズレる。身体もガチガチ。 不憫に思った母が水泳を習わせてくれたが、決して早い訳ではない。  小学生の時は水泳がある2学期のみ成績が上がり、あとは最低評価。 球技は中学時代。水泳部がなく、消去法で卓球部に入ったことで。形にはなっているが、 3年最後の団体戦。2年生にレギュラーを取られて。まわりから、それっておかしくね?と笑われたぐらい。 普通なら、悔しい!と思うのかもしれないが。私はそうではなかった。 自分の実力は1番よく分かってるし、昔から、マイペースだと言われるぐらいのんびりしている上に勝負事に興味がなかった。 そういう性格だから、小中は嫌がらせ。またはいじめのターゲット。 当たり前だか、運動はチームのお荷物認定。なので、基本は試合にいても、空気。 いざとなると、ボールを回してくるが、突然跳んでくるので。 当たり前のように取り損ねる。で、取れなかった事を責められる。 小中時代はそれが当たり前。 責めない!と先生が言っても、試合に負けたり、点が取れなかったりすると。私のせいになる。 私がいない方が試合が回るんだろうな~と思って。休みたい!と思っても。母がそれを許さない性格で。出来ないなら、出来るようにすれば良い!と私を無理矢理練習させた。 出来ない私を叱り飛ばす母。 違う!よく見ろ! そうじゃない!こうだ!と、それしか言わない。 私も泣きながら、こうだ!と思っても。同じことしか言わない母。 成長すると、それが辛くなり、私は練習することを辞めた。母はそんな私を見て。 そんなんで社会で、生きていけると思うなよ!とよく言っていた。 そんな私が通った高校はそこそこ運動部が強かった。特にバレー部が強い。 その先生はなんでもかんでも、運動が出来ない生徒に不利な課題を与えた。 基本的なパスやラリーは100回。バレーの時はそこから更に、サーブ10回にスパイクが追加させる。 私は誰とやっても、パスやラリーは100回続かず。サーブも半分入れば良い方で。スパイクに至っては。バレー部員でなくとも、おかしい!と言われるレベル。 なので、試合は小中とは違って。完全に空気。誰もパスしてこないから、平和だった。 だけど、完全に空気なので。毎度。試合にいる?抜けても、良い?と毎回思ってしまい。 最終的に、テストで疎外感について例題を書きなさい。という問いに。 その事を書き。リアリティーがある!と褒められてしまい。複雑な気持ちになった。 出来なさ過ぎて、出来ない見本として。見られながらやらされた事もある。 先生は、具体的にどこがどう違うのか教えてくれない。 逆!だの、そうじゃない!こうだ!としか言わないし、私がその動きをしても。違う!としか言わない。 その先生自身、言葉遣いが悪く。小中時代も言葉遣いが悪い人達に出来ない事を責められていた私にとって。その先生はトラウマでしかなく、1度。それに耐えられなくて。学校を休んだ経験がある。 母はそんな先生が許せない!と怒っていたが。 私から見れば、具体的な指導もなく。ただ、ひたすら。こうだ!違う!そうじゃない!と怒鳴っていた母も、体育教師や小中のクラスメイトとなんら変わらない。 彼女達を指導したのは、まさにそんな人達だった。 自分のやってきた事に誇りや自信、熱意がある。極めたからこそ、厳しさがある。 だけど、誇りや自信、熱意があるからと言って。 罵声を浴びせるのは、どうかと思った。 下手くそ、 きったない、 やる気ないなら、やめちまえ 努力が足りない 出来ないからって逃げんな 小中時代、母、体育教師に似たような事を言われた私にとって、彼女達の指導者は毒でしかなかった。 今でも、その時の事を思うと。涙が止まらなくなる。
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