楽しもうと思った

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 この世界では、人の良い部分は見えないらしい。  その証拠に、みんなストレスを抱えて、人の粗探しをして、なんとか自分を保っている。  僕は自分の足で歩くことに疲れたので、立ち止まってそばにあるベンチに座った。  まっくろな雲が世界を囲んで、ポツポツと雨が降ってきた。  僕は、この世界を行き交う人をボーッと眺めている。  目の前を歩いている、長身のサラリーマンの歩き方には、良い部分と悪い部分が半分ずつあった。  信号を待っている、お年寄りの歩き方にも、やっぱり良い部分と悪い部分が半分ずつあった。  五人ほど観察したら、人の歩き方に詳しくなった。  でも、歩き方を知れば知るほど、良い部分が見えなくなった。  この世界にきてから、僕の人生がどう評価されたのか、思い出す。 「君には個性がないんだよ」と言われたっけ。  すると、遠藤(えんどう)くんの人生が目の前に現れた。  特に目新しいものはなく、犬が歩いても、十五分くらいでぶつかるような内容だった。  遠藤くんへの応援メッセージに、『つまらない人生ですね』と書いた。 「君はアピールが足りないんだよ」とも言われたっけ。  すると、高梨(たかなし)くんの人生が現れた。  悪いところはなかったけど、あまりに地味すぎて興味がもてなかったので、僕の目から彼の姿が消えた。  高梨くんへの応援メッセージに、『全然ダメですね』と書いた。 「誰に向けて作ったのか不明です」とも言われたっけ。  すると、鳴海(なるみ)さんの人生が現れた。  彼女のアイデアは新しかったけど、今の流行とはズレていたので、誰からも注目されなかった。  鳴海さんの応援メッセージに、『努力しても無駄ですよ』と書いた。  書き終わったあとに、自分の(てのひら)を見つめていると、その手はひとまわり大きくなった感じがした。  僕は遠藤くん、高梨くん、鳴海さんの人生の悪い部分を言えたから、彼らよりも頭がいいし、優れている人間だと思った。まわりの人もそう思っているはずだった。  僕の客観的なアドバイスを聞けない人は、この世界で生きていくことは難しいだろう。いつまでも殻に閉じこもっていればいい、と思った。    でも……、僕の心の奥底に、後ろめたさがあった。  僕の人生は苦しいことだらけだったけど、今の遠藤くん、高梨くん、鳴海さんも同じように苦しんでいるだろうと思うと、罪の意識はどんどん大きくなっていった。  僕が初心者のときにした思いを、初心者である三人に押しつけていた。  そんな自分が醜く思えた。  僕の人生に、応援メッセージが来ていた。 『人に寄り添うことができていません』と書いてあった。  それを見た瞬間、僕は笑い出してしまった。  だって、人の気持ちに寄り添ってきた人は、絶対にこんなコメントはしないはずだもの。  この人も僕と同じように弱い人間で、無駄な時間を過ごしているのだ。  他人の人生を批判して、自分が優れた人間であると信じ込んでいたのだ。  しばらくすると、この世界の喧嘩というのは、本当はくだらないものじゃないか、と疑い始めた。  だから、思い切って、人と戦うのをやめてみた。  力が抜けて、背中が軽くなった気がした。  もう一度、三人の人生を見てみた。  遠藤くんの人生は、ほのぼのとした日常が心地よかった。  高梨くんの人生は、疲れている人に安らぎを与えるものだった。  鳴海さんの人生は、胸が躍るような、新しい世界への旅だった。  三人の良い部分を見ようとしたとき、光が差し込んできた。  それを見ている僕の人生が、輝き始めたような気がした。  心によって見えるものが変わるのだと知った。  人の良い部分を見ようと思った。  楽しもうと思った。
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