気づき

2/3
前へ
/8ページ
次へ
 記憶を辿(たど)って、あの背中と似た波形を持つ思念を喚び起こす。  最近、この迷宮の最奥部で死んだ壮年の男の記憶が、叡智の塊の身体を満たす。思念が裡に染まって行くに従い、その身がにわかに男の姿へと変貌した。鋼のような意志の強さだったのだろう、生前の姿を仔細に渡って再現していた。  死の直前までの記憶によると、この男は身を挺して自身の弟子を迷宮から逃し、玄室を守護する魔物、恐らく龍のようなものによって倒されたようだった。  今際の際で『絶望』を抱かず、未来への希望に満ちて死に逝った魂の記憶に、再び身を震わせる。  そして、今日。迷宮から逃げ去って行ったのは、この男の弟子。なぜ男は、あのような弱き思念の持ち主を弟子に取ったのだろう。叡智の塊は怪訝(けげん)に思うと、自分の裡にいる男の思念が語りかけて来た。 『生まれながらにして強きものは、そうはおらぬ。しかも、人間は他の種族と比較すると、特に秀でた能力は持ち得ない。寿命も短い。だから我々は、文明を築き、常に心と技を鍛え、それを次の世代へ繋げ、受け継いで行く。弱き生き物ではあれど、後世の者たちは我らの志を受け継ぎ、力を合わせることで文明を発展させ、数多の苦難を乗り越え、大義を成すことができるのだ』  その説明を聞いても、叡智の塊は理解し難いことだらけだった。悠久の生を続けられるこの存在には、どうしても識り得ぬことだった。  それよりも、自身の裡に収めたはずの男の思念が、その記憶からの残滓ではなく、なぜゆえ自身に語りかけることができるのか。  いろいろと合点の行かぬ叡智の塊に対して、男は続ける。 『お主が我らや他の骸を喰らうとき、魂に刻まれた記憶によって己が自身を染めるのと同じことだ。様々な魂に染まったお主の自我は、既にお主だけのものではない。それぞれの種族は、魂を繋ぎ、心を結び、絆を紡いで未来へ向かって生きて行く。我らはその礎となり、後世への道標となる。お主はその思いの受け皿……思念の坩堝として生きておる。我らの希望、そして願い、これらを成就させるに足る、素晴らしき叡智を誰にも知られることもなく、ただ一筋に積み上げて来た、唯一無二の存在なのだ』  男の語りかける言葉に賛同するかのように、他の思念たちが一斉に声を上げる。叡智の塊は裡に収めた意識の奔流に飲み込まれ、自我と意識を失いかけているような気がしていた。これほどの意識に同時に触れられることはかつてない衝撃で、底知れぬ恐怖を感じていた。  別の男の声が裡に響く。自身を創り給うた主人の声に似ていた。 『恐ることなく向き合うのだ。今までもこの数多の声を聞き分け、それを己がものとして来たはずだ。意識の奔流に身を任せ、あるがままを受け容れるのだ。さすれば、己が成すべきことに辿り着けるであろう』  本当にそんなことができるのだろうか。急速に失われて行く自我に恐れを抱きつつ、それでも逃げずに意識の奔流に身を任せる。  するとその流れは、抵抗しようとしていたときと比べてだんだんと緩やかになって行く。  そして流れ着いた先は思念の海。叡智の塊は実際に海を見たことはないが、誰かの魂にはその広大な海原の記憶がある。  その思念が織りなす海原に、漂い浮かぶ自我。  穏やかな波に揺られ、優しく包み込まれる感覚。  かつて感じたことのない安らぎに満ちていた。  今までの、記憶に染まる感覚は、この思念の海と比較すらできないほど小さきものだったのだと気づく。全てはひとつで()り、ひとつはその全てで在る。この思念の集合体の個である自身をも、その中のひとつとして受け容れてくれていることへの歓喜と、感謝に叡智の塊は心が躍るのを感じていた。  心。無意識のうちにその表現が自然に浮かんだ。  心。自身の裡にも、そこに()った。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加