出立

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 師匠の姿を目にした弟子は大いに驚愕し、盛大に泣き喚いた。ひとり迷宮に残った師匠の背中を追い求め、生存を願い、その死を認めることができない一方で、迷宮の探索が一向に進まない苛立ちの日々。  そんな折に、ふらりと目の前に現れたのだから無理もない、叡智の塊はそう思った。しかし、彼は厳然たる事実を弟子に語る。 「盛大な感動のさなか、私はお前にいっておかねばならぬことがある。私はお前の師匠ではない。師匠の骸を喰らい、その魂に染まり、その姿に身をやつす存在だ。ここに来たのは、お前の師匠の恨み言を述べるためではない。よいか、その内容を心して聞くがよい」  弟子はあまりに突飛な内容に呆気に取られ、泣き叫ぶことをやめた。叡智の塊が語る言葉に理解が及んでいないようだったが『師匠の骸』という単語の意味はわかったようで、その表情は凍りついた。弟子がこの話しを信じようが信じまいが、叡智の塊には関心はない。それはこの弟子次第だからだ。 「お前の師匠は、お前を逃したあと、龍が放った(ほのお)の息で()かれ死んだ。しかしその魂は死への恐怖や絶望はなく、お前の未来、お前の成長を願って、後世への未来に希望を抱き、死に逝った。多少の心残りがないとはいえぬが、それでも晴れやかに、眩しき波動を残して世を去ったのだ。だが、私がその魂をこの世に留めてしまった。私はこの魂に染まり、そしてお前に師匠の想いを繋ぐために迷宮を出た。私自身も、お前の師匠の魂、思念によって、私にも心が在ることを識り得た。その恩に報いるためにも、私はここへ訪れた」  弟子は両膝をつき、両手で顔を覆ってすすり泣きを始め、師匠との別れの日を悔いていた。 「あのとき……俺は逃げずに師匠について残るべきだと、ずっと思っていました。師匠に恨まれていないか。幻滅されていたのではないか。絶望していたのではないか。そうした様々な感情が、俺の心をいつでも苛んでいたのです」 「安心せよ。お前の師匠は、お前が自身を苛むような感情は一切抱いていない。ただ忘れてはならぬ。師匠はお前に未来へ希望を託したのだと。さすれば、お前は飽くなき心と技の研鑽に努め、挑戦を続けよ。そしてお前の背中を追う次代の者たちへの規範となれ。お前がその大義を果たせずともよい。過ちは省みるべきことではあるが、それはやがて過ぎ行き、過去となる。過去にのみ囚われるな。未来への希望を抱き、その想いを次代へと繋ぐのだ。さすれば、やがていつか大義は果たされる。お前の師匠の言葉だ」  弟子は立ち上がり、師匠の姿である叡智の塊の両腕を縋るようにつかんでいった。 「あなたが、ここに残って俺たち見守ってください! そうすれば俺たちはあなたの……師匠の教えを請うことができます! そうすれば」  懇願する弟子の手を優しく解き、しかし、表情を一層険しく弟子の目を見つめ、叡智の塊は声を発した。弟子を(さと)すときは、師匠はいつもこの表情をしていたと、魂の記憶が告げていたからだった。 「想いは既に託された。ここから先はお前自身の未来を生き、お前自身でその答えを見出さねばならぬ。いつまでも師匠が教えを説いていては、託した意味がないであろう? それに、私の心の裡にはまだ多くの魂がおり、私は彼らの想いを伝えに行かねばならぬ。これは私が出立のときに決めた、私自身に課した責務であり、使命、そして生きる意味だからだ」  叡智の塊の言葉に、泣きくれていた弟子の顔が、徐々に屹然としたものへと変わって行く。 「なぜか師匠に叱られたような気分になりましたが……あなたの仰る通りですね。師匠の想いを胸に、それを繋いで生きて行きます。ところで……失礼ですがあなたの、お名前は?」 「私の名前か。今まで考えたこともなかったが。元々は『SLIME』という名だったそうだが……『魂に染まるもの』とでも記憶しておいてくれ」  『SLIME』という名詞と、目の前の師匠の姿に関連性を見出せず、弟子の顔が要領を得ないような、怪訝な表情へと変わる。 「では、さらばだ。もう会うこともあるまいが」  叡智の塊には、自身の名にはさしたる意味も感じず、魂の想いを繋ぐ次への行き先を考え始めていた。  ただひたすら、骸を喰らっていた日々のように。
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