1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

 大学を卒業してから数年後に、二度目の戦が起こった。この国を焼き尽くした大戦は、数えきれないほどの犠牲を出して、結局は降伏という形で幕を下ろした。俺も軍医として戦地に派遣され、前線に駆り出されることはなかったが、少し足を悪くした。五体満足で無事帰ってこられたという点は喜ぶべきだが、俺は杖なしでは歩けなくなってしまったことを悔しく思っている。  それからまた何年かした後に、俺は小さな診療所を開いた。地元でもなく、学生の頃に過ごしたあの街でもない、全く知らない新しい場所。誰も知り合いのいない、遠くの町に引っ越したかった。この町を選んだ理由は特になく、強いて言えばあまり人のいない場所がよかったからだ。俺はきっとこの町を気に入って、この町で死ぬのだろう。もう誰にも邪魔されないように、静かに暮らしたかった。  学生時代の友人たちとはもう縁を切った。唯一、渡とは今でも時折手紙をやりとりする程度の仲で、あいつは実家を継いだが財閥解体の煽りを受けて今は大変そうにしている。  俺は今ひとりで暮らしている。家族は俺のことなどどうでもいいだろうから、結婚を急かされることもない。俺はずっと、この先もずっとひとりで生きていくのだろう。俺はそれでいいと思っている。    ○    ある夏の日の夕暮れ、姦しい蝉の鳴き声が大人しくなっていた頃。もう誰も来ないかと思いながら受付でカルテを整理している時に、その少年は診察にやってきた。突然現れた少年に、俺はひどく驚かされた。  少年は中学生くらいの年頃で、平均よりやや背が高い。吊り目気味の双眸が印象的で、まるで猫のようだと思った。学校の制服は砂埃にまみれており、手の平を擦りむいたらしく皮が剥けて血が滲んでいる。 「すみません、河川敷で遊んでて転んじゃって。ちょっと手首が痛いんで、診てもらえますか」 「ああ、どうぞ。まだ時間は大丈夫だから」  俺はそう答えて立ち上がる。傍に置いてある杖を取り、情けなくもノロノロと診察室へ歩いていく。少年はそれを見て、何も言わずに手を貸してくれた。 「悪いね」  礼儀正しい子供だと思った。俺が彼と同じくらいの年齢だった時にこんな気遣いができていただろうか。思い出したくもない思い出が蘇りそうになり、俺は振り払うかのように頭を振った。   「うーん、そうだな。折れてるというほどじゃないし、軽い捻挫だろうね。しばらく安静にしてればそのうち痛みも引いてくるさ。軟膏と、何枚か湿布を出しておくから、何日かしたらまた来てくれ」  河川敷で友人とキャッチボールで遊んでいて、ボールを追いかけているうちに転び、変に手をついてしまって捻挫をしたのだろう。この年代の少年ならよくある怪我だ。カルテに記入し、戸棚から湿布を取り出す。少年の手首に湿布を貼ってやり、その上から包帯を巻いた。 「大袈裟に見えるだろうけど、これくらいやっておいた方が安静にしようっていう意識に繋がるんだ。親御さんは心配するだろうけど、あまり心配しなくていいと伝えてくれ」 「わかりました。ありがとうございます、先生」  少年は素直に頷いて、数日分の湿布と軟膏を受け取った。受付に代金を置き、何日かしたらまた来ますと言って帰っていった。  誰もいなくなった診療所で、俺は少年のカルテを見ながら溜め息を吐いた。  少年の名前は芦屋直紀といった。まさかと思った。とはいえ、同じ苗字の人間なんていくらでもいるだろう。ただの偶然ならそれでよかったのだが、あの少年は芦屋に瓜二つだった。俺は彼が芦屋の息子なのだと思った。あの猫のような鋭い目を見た瞬間、彼が芦屋直史の血を引いていることを確信した。芦屋がこの町にいるのだろうか。  彼が芦屋と関係があるというのは確かだったが、直接訊いてみる勇気はなかった。あれだけ後を追いかけたいと思っていたのに、十五年も経ってしまえば再び会うのが恐ろしくなってしまう。もう二度と会えないと自分なりに整理をつけたのだ。それなのに、俺はまた変わってしまうのだろうか。このままひとりで生きていくと決めたのに、俺は彼らに再会したいと願ってもいいのだろうか。  再び溜め息を吐いて、カルテを引き出しに仕舞った。どうせもう誰も来ないだろうから、今日は終いにしよう。杖を支えにして立ち上がる。  窓の外からヒグラシの切ない鳴き声が響いている。気がつくとじっとりと汗をかいていて、杖を持つ手が滑った。        ズキズキと締め付けるような頭痛に襲われる。眉を顰めながらゆっくりと瞼を開けると、カーテンの隙間から朝日が差し込んで目に痛かった。徐々に脳が覚醒してきて、昨晩のことを思い出す。  昨日は家に置いてあった酒を全部出して、ひとりですべて空けてしまったのだ。すべて忘れてしまいたくて酒を飲んだ。そこらじゅう酒臭くて吐き気がする。  記憶を失いたくて酒を飲んだのに、残念ながら記憶はしっかり残っていて、いいことなどひとつもない。頭の中がモヤモヤして、ぼうっとしているうちに吐き気が込み上げる。杖をどこにやっただろう。手探りで探してみても見つからず、気だるい体を引き摺って便所まで這っていく。 「う、うぇっ……げほっ、げほっ……うぅ……」  頭がズキズキする。ひとしきり吐いて、少しだけ胃が軽くなった。目尻に浮かんだ涙を拭って、大きく息を吐く。痛む頭を押さえながら薬箱を取り出し、鎮痛剤を飲んだ。大学を卒業してからはもう依存性のある薬に手を出すことはなくなっていて、この薬箱には健全なものしか入っていない。  酒に逃げたところで、どうしようもないことはわかっていた。何の解決にもならない。その場凌ぎの現実逃避をしたところで、実際は現実からは逃げられない。俺は、どうすればいいのだろう。  俺はそのまま寝室に引き返さず、壁を伝いながらよろよろと家の外に出た。相変わらずアブラゼミが五月蝿く鳴き叫んでいて、遠くで子供たちのはしゃぐ声がしていた。どこかの家の風鈴の音、野良犬の鳴き声、いろんな音がうるさく頭に響いてズキズキと痛みが増す。茹だるような暑さに耐えきれなくて寝巻きの袖を捲り、額の汗を拭い空を見上げると、恐ろしいほどに白い入道雲が青空に浮かんでいた。戦が終わったあの日を思い出して、少しだけ胸の奥が痛かった。  家の裏手にある納屋に辿り着く。扉を開けると砂埃が派手に舞い、激しく咳き込んだ。ここを開けるのは何年振りだろう。ここには使わなくなったガラクタや、学生時代に使っていた教科書などを仕舞っている。俺はその中の一つ、とりわけ大きな行李に手を伸ばす。本当は開けたくなかったけれど、俺は覚悟を決めてその箱を開けた。  この行李には、芦屋が部屋に置いていった私物がまとめて入れてあった。いつか取りに戻ってくるかもしれない、あの下宿を出るまではそう思って捨てずに残しておいた。この町に引っ越してからは、いつか再会する機会があるかもしれないと思って納屋に仕舞っていた。もう芦屋に会うことはないだろうとわかっていたし、何度も捨てようと思った。それなのに、結局十五年経っても捨てられなかったのだ。俺と芦屋の繋がりは、もうこれしかない。これを捨ててしまえば、もう何も無くなってしまう。それが怖くて捨てられなかった。  ひとつひとつ箱の中身を手に取ってみる。あの日芦屋が吸っていた煙草、灰皿。軟膏の空き瓶。芦屋が握りつぶした碓氷からの手紙。たまに読んでいた小説。三日坊主の日記帳……。箱の中には土の匂いと、少しだけ煙草の匂いが混ざっていた。  あの日、夜明けを待ってから下宿に帰ると、芦屋だけがいなかった。部屋にあった荷物はすべてそのままで、持ち主は二度と帰ってこなかった。俺はこのいくつかのガラクタと共に芦屋の帰りをずっと待っていた。  日記帳を手に取って開いてみる。三日分しか埋まっておらず、仕事が見つからないだの煙草が高いだの文句ばかり書き連ねられている。パラパラと捲っていると、不意に一枚の写真が滑り落ちた。   「どうよ、これ。結構いいやつだろ?」 「ほら、こっち見ろって! 撮るぞ」 「顔が硬くなってるぜ、そんな緊張すんなよ」  声を思い出す。  いつ頃だったか、芦屋がどこかからカメラを貰ってきて、しばらくそれで遊んだことがある。酒を飲みながら、馬鹿みたいにいろんな写真を撮って遊んだ。当時は撮っただけで飽きて現像しなかったと思っていたが、こんなところに隠されていたとは。写真に映る俺と芦屋は愉快そうに笑っている。笑っている時の自分は、こんな顔だったのか。あの時の俺は、こんな顔で笑えていたのか。なんだか少し気恥ずかしい。  写真に碓氷は映っていなかった。この写真を撮ったのは碓氷だった。彼はどちらかというと映るより撮るのが好きで、楽しそうに俺たちを撮っていたのを思い出す。碓氷はどんな時でも笑っていたけれど、あの時の碓氷の笑顔は本物だったと思う。  この写真を眺めていると、十五年前のあの数ヶ月の記憶が蘇ってくる。もうすっかり忘れてしまおうと思って心の奥底に仕舞ったというのに、次から次へと記憶が溢れてくる。俺は本当にあの数ヶ月が楽しかったのだ。あの二人のことが好きだったのだ。俺はあの二人と一緒に生きたかったし、あの二人と共に死にたかった。  思い出が蘇って、少し泣きそうになる。喉がヒリヒリと焼けるように痛くなり、視界が揺らいでいる。涙が出るなんて、俺も歳をとったものだと一人で笑った。  あれから十五年経って、さまざまなことを経験した。戦争があって、他人の死を数えきれないほど見届けて、学生時代の知り合いも何人かいなくなった。終戦を迎えて、知らない町に引っ越して、知らない人のために診療所を開いた。もうあの頃の自分はどこかへ行ってしまった。それならもう、意地を張る必要もないのかもしれない。無理に過去を忘れようとなんてしないで、素直にもう一度あの二人に会いたいと思っていいのかもしれない。  写真に映る芦屋と、昨日診療所に来た芦屋直紀は、本当に瓜二つだった。あの少年はやはり芦屋の息子なのだと思う。  しかし、疑問が一つだけある。碓氷はどこへ行ったのだろう。芦屋は誰か別の女と子供を作ったのか? あの人は女遊びが激しかったが、行きずりの女を孕ませるなんて無責任なことはしないと思う。碓氷と別れて知らない女と子供を作るなんてあり得ないと思うが……。  次に芦屋直紀が診療所を訪れたら、今度こそ尋ねてみよう。芦屋がこの街にいるのだとしたら、再会を望んでみるのもいいかもしれない。そしてこの荷物を彼に返そう。      ▽      芦屋直紀が次に診察に訪れたのは盆休みに入る前日だった。手首の捻挫はすっかり良くなっていて、念の為にと追加の湿布を何枚か渡した。診察が終わって、俺は世間話をするかのように平静を装って切り出した。 「おそらくなんだけど、昔キミの父親と知り合いだったんだ。とてもよく似てるよ」  そう話すと、直紀はひどく驚いていた。猫のような瞳が丸くなる。俺は声が震えるのを必死に抑えて、笑顔を作った。 「学生時代に一緒に住んでいたことがあって、それきり会ってないんだけど。ええと、彼は今も元気にしているか?」  直紀はわずかに眉を寄せて、瞳が左右にキョロキョロと動いた。俺はもうそれだけで察してしまった。直紀がゆっくりと言葉にする。 「……いえ、父は僕が生まれてすぐに死にました」  俺はこの時どんな顔をしていただろう。 「空襲で家が焼けて写真も残ってなくて……僕は父の顔を見たことがありません。母に似てるとはよく言われますが、そんなに父と似ているんですか?」  直紀の言葉を聞きながら、俺は体の中が空っぽになっていくような感覚だった。哀惜する余裕すらない。次第に直紀の声が遠のいていき、彼が何を話しているのかわからなくなった。芦屋は死んだ……。その事実を俺は受け止めきれない。 「乾先生? あの、大丈夫ですか」  少年に肩を掴まれてハッと我に帰る。心配そうに顔を覗き込まれて、彼の目と合わさった。芦屋に似たその瞳を見ると息が詰まる。 「あ、いや。大丈夫だ、すまない……」  思わず目を逸らした。逸らした目線の先に、あの日記帳があった。あの写真を直紀に見せようと思って、家から持ってきていた。日記帳に挟んでおいた写真を取り出して、直紀に見せた。 「これがキミの父親だよ。昔撮った写真なんだけど、やっぱり似てるよ」  写真に映る芦屋と俺の姿を見て、直紀は興味深そうに俺と写真を見比べた。じっと見詰められて面映ゆい。 「あのさ。碓氷螢一郎って人は知らないかな。共通の知り合いだったんだけど……」  問いながら、俺は直紀の顔をまともに見れない。 「碓氷螢一郎……どこかで聞いた気がしますけど、会ったことはないと思いますね」 「……そうか」  芦屋が死んだというのなら、きっと碓氷も共に死んだのだろう。二人とも、俺を置いていなくなってしまったというのか。それならもう、俺はようやく諦めることができる。あの荷物も処分して、もうすべて忘れてしまえばいい。  これでようやく、気持ちに整理がつきそうだ。 「父親の写真はもうないんだろう? その写真はキミにあげるよ。キミに持っててもらった方がいい」 「いいんですか? ありがとうございます、母が喜ぶと思います」  直紀に母親のことを聞くのは躊躇われた。芦屋がどんな人を選んだのか気になったが、それと同時に知りたくないという気持ちもあった。芦屋と碓氷が一緒にいないということが、いまだに信じられないのだ。 「……墓がどこにあるか聞いてもいいか? 墓参りに行きたいんだ」  芦屋直史は死んだ。俺はようやく、彼に再会できる。    ○    次の日、ちょうど盆休みに入り、俺は芦屋直紀と共に町の北側にある山を訪れた。  墓地は町からそれほど遠くないところにあった。蜃気楼が揺らめく猛暑の中、直紀に支えられながら山を登ると、墓地が見えてきた。敷地は結構広く、隣には立派な寺が建っている。  芦屋は俺の前から姿を消した後この町に来て、ここにしばらく住んでいたのだ。自分がこの町に引っ越してきたのは偶然だったが、それが奇跡のように思えた。 「少し休憩しますか? 山道、結構厳しかったでしょう」  正直、杖をつきながらこの山を登るのはかなりしんどかった。俺ももう若くはないし、山を登るだけで一苦労だ。直紀が水筒を渡してくれたので一口飲み、息を整えた。 「大丈夫だよ、ありがとう。案内してくれ」  手桶と柄杓を持ち、直紀はまっすぐ歩いていく。時折俺を振り返って様子を伺いながら、砂利道を進む。俺は直紀の後を追いながら、なんとなく左右を見回す。そして、ふと見た墓石に「碓氷家」と刻まれているのを見つけてしまった。思わず足を止める。 「どうかしました?」  直紀が振り返る。俺の目線を辿ると、何かを思い出したかのように「ああ!」と声を上げた。 「思い出しました、碓氷螢一郎さんのこと! 祖父母の知り合いに碓氷さんという夫婦がいらっしゃって、このお墓がその人たちのものだと教えてもらったことがあります。確か、火事で亡くなったとか。長男が一人だけ助かって、身寄りがなかったんで、しばらく祖父母の元で預かったことがあったそうです。それが碓氷螢一郎さんです」 「……この町に住んでいたのか?」 「はい」  碓氷の両親の墓がここにあるということは、この町が芦屋と碓氷の故郷だったのか。偶然にも、俺はあの二人のふるさとに引っ越してきていたというのか。しかし、芦屋は実家を勘当されて故郷を出てきたと言っていた。そんな状況で、この町に再び帰ってきたなんて考えられないが……。何か辻褄が合わないな、と思った時、後ろから女の声がした。   「あなたが乾桐彦さん?」  その女は、目元が芦屋にそっくりだった。長い髪を高く結い上げ、質の良い着物を身に纏っていた。 「母さん? どうしてここに……」 「直紀に話を聞いて、あなたがくれた写真を見ました。今日こちらにいらっしゃるというから、直接お話ししたくて待っていたの」  女は芦屋スミと名乗り、持っていた巾着から昨日俺が直紀に渡した写真を取り出した。写真に映る芦屋と目の前の女を見比べて、俺はようやく過ちに気がついた。   「この写真に写っているのは私の夫ではないわ。これは私の弟、直史です」  確かに、芦屋に姉がいるというのは聞いたことがある。直紀が芦屋の甥である可能性も考えたが、姓が変わっていないのでその可能性は否定したのだ。 「兄が病気で臥せってしまって。弟も家を出て行ってしまった。私は家を継ぐために婿を迎えましたの。結局旦那も戦争ですぐに亡くなってしまったのですけど……。今は私が実家の呉服屋を継いでいます」  思えば、直紀に直接父親の名前を聞いたわけではなかった。俺が一方的に彼を芦屋の息子だと勘違いしていただけだ。直紀も自分は母親似だと言っていたではないか。 「そ、そうなんですか……。申し訳ありません、とんだ勘違いを」  直紀の父親が芦屋直史ではないというのなら、この先の墓で眠っているのは彼ではないということだ。芦屋はまだ死んでいない。確実にそうと言えるわけではないが、俺は心の底から安堵した。 「乾さん、弟と親しくしてくれてありがとうございました。家を出てから、どうしているのか心配していたのです。元気にしていたみたいで、安心しました」  スミは礼儀正しくお辞儀した。確かに、芦屋が実家と連絡をとっている姿は一度も見なかった。あのような形で家を追い出されたのだから仕方がないとは思うが、手紙のひとつくらい出してもいいのではないかと思っていた。 「……芦、いえ直史さんとはあれから連絡を取っていなくて。俺も彼が今どうしているかは知らないんです。彼がどこにいるか、何をしているか、ご存知ですか」  一縷の望みを賭けて尋ねてみるが、スミは首を横に振った。顔には出さず落胆していると、スミは巾着から葉書を一枚出して俺に見せた。 「ただ、直紀が生まれてしばらくして、直史から絵葉書が一枚届きました。差出人の名前は書いていなかったのですが、感謝とお祝いの言葉が一言ずつ添えられてありました。私はこの手紙は弟からだと信じてます。便りはこれっきりでしたが、弟は今もどこかで元気にしていると思っています」  その絵葉書には海の風景が描かれていた。スミの言った通り「おめでとう」と「ありがとう」が小さく書かれていたが、その筆跡は碓氷のものに似ている。二人でこの絵葉書を選び、二人から芦屋スミに向けて送ったのだろう。 「乾さん、この写真はお返しします。これは貴方の大切な思い出ですから、貴方が持っていてください」  直紀に渡した写真を返される。これは俺と芦屋と碓氷を繋ぐ、たった一つの思い出。写真の中の芦屋はあの頃のまま、俺だけが先に進んでしまったみたいだ。 「弟と仲良くしてくださってありがとうございました。私も直紀もこの町に住んでいますから、何かあればいつでもお訪ねください」  スミはそう言って笑った。猫のような大きな瞳を細めて笑うその姿は、やはり芦屋に似ていた。スミと直紀は深々と頭を下げ、俺も釣られて頭を下げる。 「いえ、こちらこそありがとうございました」  そう返して笑顔を見せる。うまく笑えているか自信はなかった。      直紀とスミを先に帰らせ、俺は墓地の外に出て空を見上げた。相変わらず真っ白な雲が青々とした空に育っていて、その白さがあの寒空を思い出させた。俺はあの時どうすればよかったのか。この十五年間何度も自問を繰り返したが答えは出なかった。碓氷が遠くへ行くのを止めればよかったのか、後を追いかければよかったのか。そうすれば、俺はあの街でひとり取り残されることはなかった。別れの言葉さえ伝えられずに、一生後悔することもなかった。  それでも、俺は何もかもを捨てて彼らに着いていくことはできなかった。勇気がなかった、他にも大切なものがあった。言い訳ならいくらでも思いつく。結局、俺はあの二人と肩を並べることができなかったのだ。夢は叶わなかった。  手元の写真をもう一度見る。俺はもう、二人の声を思い出せない。碓氷の顔も思い出せない。忘れてしまおうともがいて、忘れることなんてできなくて、それなのに時の流れというものは残酷に過ぎていく。彼らの声を思い出せないことがこんなに辛いなら、忘れてしまおうなんて思わない方がよかった。  しかし、もうすべて過ぎてしまったのだ。どんなに振り返ったところで昔には戻れない。彼らは自分たちの信じる未来を選んで、俺も自分で未来を選んだ。二人の進んだ道と俺の道は交わらないが、ずっと前に続いていく。  あの二人が今もどこかで生きているのだとしても、あるいはとっくに死んでしまっているのだとしても、自分は変わらない。俺は俺の選んだ未来を進むだけだ。俺はこのままこの記憶と共に生きていくと決めた。後悔も、懐古も、寂寞も、すべて自分の心だ。あの二人の影はもう追わない。俺はあの日々の記憶を大切に持って、決して交わらない別の道を歩いていくのだ。  そして、もし偶然どこかで道が交わったなら、彼らに伝えたいことがある。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!