前編

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前編

   *  工事現場のカラーコーンがまばたきする眸のように点滅した。アタッシェケースの銀色に赤い光がぼんやりと反射する。銀のアタッシェケース。これが登場した途端に、自分が夢をみていることがわかる。  早く目覚めなければ彼が来てしまう。こんなものは忘れて、立ち去るべきだ。  なかば覚醒した意識がそう告げても眠っている体は自由に動かない。それどころか夢の中の自分は真逆のことをする。誘惑と浅はかな喜びの命じるまま、銀の持ち手に手をのばす。 「遠夜(とおや)、やめよう。遠夜」  ああ、彼が来てしまった。はんぶん覚醒した意識はそう思うが、夢の中の自分は忠告に耳を貸すつもりがない。 「なんでだよ、(せい)。これがうまくいけば俺は家を出られる」 「遠夜、あと一年じゃないか。一年だけだ」 「一年も、の間違いだろ。俺はもう……待てない。あんな家、これ以上いられない」 「一年待てば僕も一緒に行ける。それじゃだめなのか?」  その一瞬だけ、友人の言葉は正しいのかもしれないと夢の中の自分は考え、夢を見ている自分はまさにその忠告に従うべきだと思う。  でも……。  夢の中で香西遠夜は目をあげ、銀色のケースをみつめる。これがもたらすものと、一年の長さを天秤にかける。十七歳の一年間は永遠の牢獄にもひとしい。  ピピッ、ピピッ、ピピッ。  どこからか警報が鳴り響く。反射的に遠夜はアタッシェケースに手をのばす。持ち手はひやりとして冷たい。警報は鳴りやまない。早くここを離れなければ――    *  黒いマントを羽織った若者が大きな白い翼を背負った少女の手をつないでいる。黒と白で顔面を塗り分けた半裸の男が大声で笑いながらそばを通りすぎていく。彼らの尻から矢印のような影が地面に落ちる――腰のベルトから悪魔の尻尾がぶらさがっているのだ。  十月三十日、ハロウィン前夜。『天使と悪魔の夜』と題された遊園地は仮装した人々でにぎわっている。天使か悪魔の扮装をすれば割引になるという宣伝が功を奏してか、道を歩くのは人ならざるものばかりだ。プラスチックの天使の輪や悪魔の羽根、シールタトゥなど、使い捨てのアイテムを利用した安易な仮装も、暗がりにたくさん集まれば壮観だ。  香西遠夜は醒めた目で群衆をみつめたが、自分の背中でも悪魔の羽根が震えているのだから、この夜を楽しんでいる人々を嗤うことなどできるはずもない。ただ彼らは楽しみでここにいて、自分にはちがう理由がある。それだけだ。 「よく考えると天使と悪魔って、ハロウィンには関係なくないか」  隣で大神怜史(おおがみさとし)がぼそりといった。遠夜の相棒は頭上で白い光の輪を点滅させている。 「この国じゃパーティとコスプレの口実なんだ。気にするだけ野暮というものだろう」  遠夜はあっさり答える。 「だいたいハロウィンは万聖節前夜、十月三十一日だ。日曜だからって前夜の前夜で騒ぐのもおかしい――なんていいはじめたらどうしようもない。すべては企業努力の賜物だ」 「たしかに。ここはイベント集客で黒字転換したというからな」  不況の長引く国で、小さなテーマパークはどこも苦戦しているが、この遊園地は定期的に奇抜なイベントを考案しては固定ファンをつなぎとめている。その中でもハロウィンナイトは大人専用の特別な位置づけで、大手テーマパークの品行方正なイベントでは許されないようなきわどい仮装も許容されていたから、毎年よそではない盛り上がりをみせていた。 「このポップコーン、悪くない」 「そうか?」  歩きながら、遠夜は大神が差し出した紙袋の中をさぐる。カボチャのランタンで飾られた通りの中央では骨の衣装を着たダンサーたちが踊りながらねりあるく。音楽と人々のさざめきのなかで、遠夜は大神に笑顔をみせ、イベントの雰囲気に埋没しようとする。監視業務のためにここにいるとバレてしまっては任務にならない。ターゲットは若い男と共に大神と遠夜の数メートル先を歩いていた。  監視してもう二カ月になるだろうか。ここ半年ほどで、環境活動家の支援者として界隈で注目されはじめた若手投資家である。環境や気候変動ファンドへの投資自体はおかしなことではないが、この男の挙動にはいささか不審な点が――暴力活動への点があるとして、〈スコレー(Scholē)〉が監視対象に加えたのだ。 〈スコレー〉はGETO――地球環境技術機構 Global Environment and Technology Organization――の内部組織で、遠夜の勤務先だ。GETOは環境問題を解決するための国際機関で、〈スコレー〉は環境変動についての調査研究部門という位置づけでる。環境教育活動と情報収集が主な業務内容だ。  ただし〈スコレー〉の実際の業務、特に調査部門のそれは一般的に想像される範囲をはるかに超えている。なぜ? 答えは簡単だ。気候変動による災害や食糧危機があらわになってきた昨今、〈環境〉は企業や政府に対する各種の工作活動や対テロ政策でも、ホットなテーマになっているから。  とはいえ〈スコレー〉の一所員の仕事は本来の意味で地味なものだ。たまに大掛かりな作戦もあるが、スパイ活動の基本は隠密行動である。もっとも〈スコレー〉は諜報機関ではない。少なくともGETOはそんな活動をしていると認めはしない。一般人のふりをして二人一組(バディ)で監視業務にあたっても、である。 「あいかわらず派手なもんだな」  大神が監視対象の背中にちらっと視線を流し、オレンジ色のフレーバーがかかったポップコーンをつまむ。 「帽子には天使の輪がついてるが、背中の羽根は半分黒い。あれは天使なのか? 悪魔なのか?」 「堕天使じゃないか」遠夜はあまり考えずに答え、ついでにたずねた。 「同伴者の調べはついたか?」 「一週間前に自宅に呼んだ男娼だ。気に入ったらしい」 「本当にフリーなのか? どこかの組織の唾つきじゃなく?」 「相手は二十歳、十八で家出して、ホスト勤務もうまくいかず、今は男専門で体を売ってる。背景はシロだ。ジラフに呼ばれたのも偶然だな」 〈ジラフ〉はターゲットのコードネームである。高価なスーツを着た男の隣を歩く若者は痩せてひょろりと背が高い。ターゲットに近づく者全員に後ろ暗い魂胆があるとは限らないが、遠夜はそこから疑うのが仕事だ。 「マークしておこう。使えるかもしれない」  何気なくそういったあとで、無意識に発した言葉を遠夜は一瞬後悔する。使()()。誰かをモノのように扱っている自分に気づいたとたん、腹の底に苦いものがおちる。前を歩く若者の背中にはすこしだけ、かつての自分を思い出させるものがある。自らの愚かさに気づかないまま、頼れそうなものにすがりつき、それでも誰かに選ばれたことに幼稚な誇りを感じているのだ。ふと明け方の夢が頭にうかぶ。銀色のアタッシェケースと、友人の声……。 「ん?」  大神の声色が遠夜の物思いを破る。 「どうした」 「もうひとり合流した。女だ」  たしかに。〈ジラフ〉の横にスカート姿が並んでいる。小さな天使の翼をつけたヘアバンドが上品に頭の上で揺れている。あの位置にあると翼じゃなくてウサギ耳にみえる、と遠夜はよけいなことを思う。服装は上品で、反対側にいる若者より年上だ。あまりこの空間には似つかわしくない。 「誰かと落ちあうなんて情報あったか?」 「いや。偶然かもしれないが……」 「夜の遊園地で仮装して遊ぶ人種じゃないな」  遠夜はスマホをひっぱりだす。 「怜史、こっち向けよ」  シャッター音と共に新たな登場人物の背中を記録する。ダンサーのパレードはそろそろ終点の広場へ到達するころだ。遠夜と大神の歩調はほんのわずか速くなり〈ジラフ〉を追い越す。遠夜はダンサーにスマホを向け、ターゲットの隣で立ち止まった女性の顔をみる。 「あれ、うちの所員じゃないか」 「まさか」 「教育部門だ」  GETOの下部組織〈スコレー〉で、ふだん表舞台に出るのは遠夜の所属する調査部門ではなく、環境教育部門の所員だ。彼らの仕事は学校に出張授業をしたり、教材を作ったり、環境教育の賞を出したりという公共活動で、それなりに立派なものだ。しかし遠夜や大神のような情報収集を主な業務とする所員は彼らと個人的な接点を作らないよう指示されている。彼らは仕事柄、遠夜や大神の調査対象に接触することがあるからだ。とはいえそれは公的な場の話で、こんなふうにプライベートな接触はふつうではない。  大神の口元にはまだ微笑がうかんでいるが、単なる偽装にすぎなかった。遠夜は大神から少し離れ、ダンスを見物するベストな位置を探すふりをしながら〈ジラフ〉をもう一度振り返る。最初から一緒だった若者はあらたな連れに困惑しているようにみえる。知的で上品な雰囲気の女性を前にした〈ジラフ〉の態度は若者に対するそれとはあきらかにちがう。  若者が唇をゆがめるのがちらりとみえた。遠夜はまた後悔する。何に対しての後悔なのかは自分でもよくわからなかった。  ジラフを視界から出さないようにして大神の隣へ戻る。 「特定できたか?」 「ああ。記録には何もない」 「新しいファクターか。わざわざここまでついてきた甲斐があったかも」  監視は忍耐を要する退屈な仕事だ。それでいて突発事件に反応できるよう、慣れすぎないように神経を研ぎ澄ませていなければならない。音楽が変わった。広場に到着したダンサーたちはパフォーマンスの用意をしている。大神がポップコーンの袋をふる。 「これが最後だ」 「おまえにやるよ」  そう答えた直後のことだった。高らかにファンファーレが鳴った。  パフォーマンスがはじまったのだと考えた人がほとんどだったにちがいない。遠夜ですらそう思ったのだ。だが広場をとりかこむ群衆の第一列がダンサーのあいだに割りこみ、周到に準備した動きでちらばってアピール幕を広げたのをみて、すぐに考えは変わる。 「絶滅を阻止せよ! ジャスト・ストップ・エクスティンクション!」  最近あちこちを騒がせている環境活動家、JSXRのアピールだ。環境保護に及び腰の政府に抗議するため、一部の有志が文化財にトマトジュースや卵を投げつけたり、ファッションウイークに街路でアピールしたりといそがしいが、この国ではほとんど相手にされていない。だが突然はじまったアピールを群衆は今夜のパフォーマンスの一部だと誤解したようで、天使と悪魔の扮装をした活動家が演説をはじめても、起きたのは拍手と歓声だった。  何の事前情報もなかったことに遠夜は混乱する。これは〈ジラフ〉が今夜ここにいるのと関係があるのか、それとも偶然なのか? そのとたん、ターゲットを見失ったのに気づいた。 「大神、ジラフは」 「今探してる」  大神は冷静にスマホのマップをのぞきこんでいる。ジラフの靴はGPSつきだ。 「ここは……トイレだな。あの女はどうする?」 「彼女は今夜の仕事じゃない」 「ああ。だが今の状況と無関係とも考えにくい」 「俺はジラフのところへ行く。合流してくれ」  遠夜は耳に入れたイヤホンマイクに手をやる。任務中、大神とは常につながっている。彼とコンビを組んだのは一年と三カ月前で、バディの相手としては最長記録だ。遠夜はGPSの痕跡を追って、パフォーマンスとアピールに夢中の群衆から抜け出す。JSXRがこんなアピールをするとは思いもよらなかったが、彼らは国際会議前の大規模デモのような活動に倦んだ人々のあいだから生まれた活動家集団で、従来の環境運動家とは思想も方法も異なっている。遠夜が予想外だと思ったということは、彼らの意図に嵌ったということかもしれない。  とにかく、今は任務だ。ジラフは思ったより遠くまで移動していた。単に用足しに来るには遠すぎると思ったとき、理由がわかった。個室から低いささやきが聞こえたからだ。 「馬鹿だな、あの女に取られると思ったか?」 「ちがうって……こんなところでやんの?」 「たまにはいいだろう」 「んっ――」  小さなリップ音、それに濡れた音。遠夜は足音をしのばせて外に出ると、監視カメラの死角になった通路にもたれる。監視業務が退屈だというのはこういうことだ、と思いながら。  こんな稼業をしていれば他人のセックスを覗き見せざるをえないことは時々ある。いつもなら何の感情もおきないのに、今夜は妙に気に障った。  ジラフに対して場所くらい選べとか、もうすこしマシな趣味はないのかと思ってしまうのは、たぶん相手のせいだろう。自分にひき比べてしまうのかもしれない。同じくらい、いやもっと若かった自分をこちら側にひっぱりこんだクリストファーはジラフよりはましだった――ような気がする。  とはいえ、あとで教官(メンター)を買って出たクリスには別の目的があったのだ。それを思うと、一時の享楽に報酬を払うジラフの方がましかもしれない。同じように若さと表裏一体の寂しさにつけこんでいるにせよ――そんなことを思ったとき、耳の中で大神の声が響く。 『ジラフは?』 「長いトイレだ。ふたりで」  ぼそりと答える。一瞬の沈黙のあと『なるほど』と返事があった。 「さっきの女は?」 『もう出た』 「ここは男二人でいる場所じゃない。あとで合流しよう」 『わかった』  暇だ。こんなとき煙草を吸えるといいのに、と思う。とはいえ監視中に煙草はご法度だ。匂い、吸い殻、唾液。痕跡を残しすぎる。それに遠夜は煙草を吸わない。  煙草の匂いのするキスなら何度か経験がある。そう思ったとたんまた、とある男の顔が頭に浮かぶ。いったい何だというのだ。ハロウィンだから? 監視している男とその相手が、昔のクリスと自分を思い出させるから?  クリスと最後に寝たのは去年の今頃だ。そう思ったとたん体の芯に熱を感じた。  どうして今?  遠夜は自分を嗤いたくなる。まるでパブロフの犬だ。快楽を教えこんだ相手を思い出したとたんに欲情を覚えるとは。唇を噛みながらマップに目を落とす。監視対象は移動をはじめていた。遠夜は情事をおえたふたりを物陰で待ち受ける。
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