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中編 宵
「秋人」
卒業式のあと、校庭に立つ八分咲きの桜の木の下に、私を待っている秋人を見つけた。数年に一度はこの地に必ずやってくる花冷えの日だった。空を覆う雪雲からは、ちらちらと雪が舞い始めていた。
秋人は幼稚園の頃からの幼馴染みだった。御父様は外国の方で私達が生まれる少し前にこの街にいらしたそうだ。御両親の開いた仏蘭西料理屋は、私が物心つく頃にはすでに一級の料亭としていつも大盛況のお店になっていた。そのおかげで御両親は秋人の面倒を見る余裕はなく、同じく両親共に旅館の仕事が忙しい私と一緒に、秋人の御母様とも私の母とも友人だった幼稚園の保育士さんに、園の時間外も面倒を見てもらうことが多かった。
老舗和風旅館である本多屋自慢の純和食懐石に高い誇りを持っていた父は、秋人の御両親のお店に競争心があったみたいだし、そもそも私が男の子と遊ぶのにいい顔はしなかった。でも他に預け先もなかったから、ほぼ毎日、家族よりも長く一緒に過ごした。小学校に上がってからも、父の目が見えないところでは自由だったから、学校が終わってから日が暮れるまで二人で時間を潰した。
中学に入ったら、この当たり前の時間にも期限があると気がついた。中学校を卒業したら、私は父の意向で私立女子校に入ることになっていた。厳しい校則の高校は寄り道も厳禁、良家のお嬢様が多く通うせいで、先生達は知らない他校生とのむやみやたらな交際に目を光らせ、特に男子など会釈をするだけでもうるさいという。秋人とはもう、簡単には会えなくなってしまう。
けれども想いを伝えれば、それまでの関係も変わらないと思っていた。最後にしたくなくて、秋人を呼び出した。
「美冬」
「あの、ね、伝えたいことがあるの。私、秋人のことが……」
生まれた頃から一緒の幼馴染みだからって。
「好きです」
お互いの気持ちがわかっているなんて、浅はかにも。
「……ごめん……。美冬さんの想いは、受け取れない」
幼馴染みならどうしてあの時、こちらに向かって顔を上げた秋人の瞳に、影が差していることに気がつかなかったんだろう。
桜と雪が混じり舞う中に秋人の後ろ姿を見送って以来、秋人と言葉を交わしたことは無い。
女子高校からの帰り道で見つけても、顔を伏せてすれ違った。
今から思い返せば、周りの女の子達の楽しそうな恋愛話に、恋に恋していたのかもしれない。まだまだ自分が本多の女将になる身だという自覚も薄くて。
祖母が母へ伝え、母が父を婿に取り守ってきた本多屋を、次は私が子の代へ継がなければいけない。この宿で寝起きし、この地からけして離れぬ女に、どうして己が大志を貫かんという男性が身を寄せてくれるだろう。
月のもののせいで縁談前の緊張が高まっているのかもしれない。そんな時に、雪の中の桜を見たから記憶の蓋が開いたのかしら。
私は本多を継ぐのだもの。今度の方か、または別の方か。いずれにせよ大旦那の納得するお相手と一緒になって、ここを守っていかなくちゃ……
***
いつの間にかうとうとと眠ってしまっていたらしい。ぼんやりする意識の中で、ぱたっ、ぱたっという音を聞いた気がして、私は目を覚ました。
自分で思っていたよりも頭痛が酷かったのかも。頭は重く、まだ少しじんじんとする。耳鳴りを消そうと首をゆっくり振って、完全に眼を覚ます。不思議なことにそれでもなお、さっきの音は続いていた。出窓の方からだ。
身を起こして出窓を開ける。私の部屋が面する裏庭には見晴台が作られていて、本多屋からすぐ下にはバス通りが、そしてその先に広がる街並みの向こうに、海が見える。いつもは闇の中にまばらな街灯とバス停の電燈がぼんやりと光るだけなのに、吐く息が白く煙る向こう、今夜は薄ら明かりの中に一面、真白の雪が浮かび上がっていた。
私が出窓から露台に出ると、さっきから聞こえていた音は一時だけ止まった。しかしほんの間も無く、今度ははっきりとすぐ横で音がして、頬に冷たい粒が当たる。驚いて横を見ると、出窓脇の壁に雪のぶつかった跡があった。
こんな夜に泊まり客の悪戯かと、手すりから身を乗り出した私は、階下でこちらを見上げている人物の姿に、まだ自分が夢を見ているのかと疑った。
「秋人!」
そう小さく叫ぶと、秋人は人差し指を唇に当てて口だけ動かしながら手招きをする。
私は部屋の中にとって返し、乱れた着物の合わせを直しながら、羽織を掴んで部屋を飛び出した。
***
階段を駆け下りて裏庭へ出ると、着物の裾が濡れないよう帯の少し下を摘み上げて積もった雪の上を急いだ。秋人は見晴台の前の木の下で待っていた。夜桜を照らす朧な明かりの中で、まるで枝から離れた花びらのようにゆっくりと舞い降る雪が、秋人の黒いコートの肩にふわりと落ちる。
なんとか転ばず秋人の前まで辿り着いて、姿勢を正して上がった息を収めようと、努めてゆっくりと、深く一呼吸する。
「秋人……さん……どうしたんですか、こんな遅くに」
あまりの驚きにさっきは忘れてしまっていた敬称を付け加える。こと男性に関しては伴侶を持つまで下の名で呼び捨てにはするなと、父から口酸っぱく言われていたのだ。
肩を縮こまらせて立っていた秋人は、ポケットから片手を出して挨拶代わりに合図した。昔からの秋人の癖だ。随分と久しぶりなのに、あまり顔も変わっていない。
「すみません、美冬……さん」
あ、まただわ。
卒業式のあの時に感じた違和感が蘇る。あの日、話の間に、秋人は突然それまでの私の呼び方を変えた。
「どうしても少し、お話がしたくて」
いつからここにいたのだろう。短く切った秋人の髪には雪の貼りついた桜の花びらがつき、顔は鼻頭と頬のあたりがほのかに赤くなっている。
「ではどうぞ玄関の中へ。ここでは冷えます」
「あ、大旦那のいらっしゃるところでは……」
「え?」
「いえ、すぐに済みますから」
秋人の顔から、さっきまでの柔らかい笑みが消えた。御父様譲りの碧みがかった瞳が私を真っ直ぐに捉える。
「京都に住むことになりました。明日の朝、ここを発ちます」
雪が音を吸う静寂の中で、秋人の声は妙に響いた。
「京都に、ですか? 何年?」
「解りません。でもどんなに早くても、五年はかかると思います」
着物が指から滑り落ちて、裾が足元でぱさりと雪を打つ。
「もう、お目にかかれることは、ないのですか?」
冷たい雪の中に音が消えていくのか、自分の問いかけが遠くに聞こえる。その私の声が、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいる。
「どうして秋人……さんは、それを今日、ここに?」
「それは……」
「なぜ、私、に……?」
まだ頭痛がしているのか。自分の理性とは別の何かが私の喉の奥を詰まらせ、唇を震わせた。
すると秋人の目がふっと歪んだのが見え、次の瞬間に私の目の前が暗くなった。
「……ごめん」
身体を震わせていた冷たい空気が消え、つむじの上に暖かい吐息を感じる。
「こんなことを言ってはいけないのかもしれない……でも」
着物越しに触れる腕はがっしりと太くて、私が知っている中学生の秋人のではない。
「美冬」
耳のすぐそばで聞こえる声には、記憶と同じ響きが残っていた。
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