後編 桜

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後編 桜

 夜が明けてすぐ、私は鳥の囀りで目を覚ました。窓からは陽の光が射し込み、出窓の外でどさり、と雪が落ちる音がする。  意識がはっきりしないままのろのろと起き上がり、着物に着替えようと肌襦袢を手に取った。  昨日の夜、秋人と別れてどうやって部屋に帰り、いつ着替えて寝たのか、よく覚えていない。あの日とよく似た名残雪が見せた夢なのかとすら思ってしまう。  けれども、雪に濡れて壁に干した昨日の着物の下を見れば、桜の花びらが一枚、床に落ちていた。  ***  どこを見ても一面、白い覆いをかぶった地面に、雪下駄がさくりと跡をつける。  まだ朝の仕事には早すぎるけれど、また眠れるとも思えなくて、皆が起き出すより先に庭の雪払いを済ませてしまおうと思ったのだ。  晴れ渡った空はうっすら白んで、朝日を照り返す雪のきらめきが目に眩しい。  まだ頭がぼんやりとしたまま、私は見晴台の椅子に積もった雪を落としはじめた。  頭の中で、昨日のことが取り止めもなく再生される。抱きしめられるままに聞いた、秋人の話。耳に入ってくる言葉の一つ一つが、頭に響いて、信じられなくて、整理できなかった。  秋人の温かな腕の中で、喉が詰まって、何も言葉が出なかった。  朝の空気は清々しい。肺に吸い込むと、キンとした心地良い冷たさが神経を伝った。  木の椅子から雪を全て落として身を起こす。白く塗り上げられた家々の屋根の向こうに、灰色をしていた昨日とは打って変わって、空の青を映した海が見える。連なる銀白の屋根と同じように、波は光を弾いて瞬きの間に色を変えた。  ——来週は御見合いで。私は本多の娘で。  いつもより重く感じる身体を見晴台の柵に預ける。  ——父様と母様の納得いく方を迎えるのが、一番の務めで…………それで?  何を見るでもなく、ぼんやりと街並みを眺める。  すると視界の中、すぐ下の通りで人影が動いた。  ——秋人……  昨日着ていたのと同じ、黒のコート。肩には大きな旅行鞄を下げている。バス停まで来ると、膨らんだ旅行鞄を椅子に置いた——この時間に来るバスは、鉄道駅への急行線。  秋人は一瞬、こちらの方を見上げた気がしたけれど、すぐに車道の右手を見て旅行鞄を掴み上げた。そしてその次の間には、秋人が顔を向けた方向からバスが現れて、あっという間にその姿を隠してしまった。  バスの車体は完全に止まり、そしてほんの数秒後、小さく弾むように揺れる。  ——え……?  いつの間にか身を乗り出していた私は、突然、手すりにかけた手の甲に温かいものを感じた。  視線を落として答えを求め、瞼を瞬くと、ぱた、ぱた、と、笠木に積もった雪の上に二つ三つ、真白の中に濃い点を作る。  その点に触れようと指を伸ばす。すると、さぁっと風の音がして、私の目の前をひとひらの雪片が横切り、指の先にあった点に重なった。  純白の上に薄紅をさしたそれは、雪じゃない——桜の、小さな花びら。  ——……美冬。  耳の中に声が響く。  気がついたら、私は駆け出していた。  ——ごめん、美冬……あのとき俺は、嘘をついた。  客棟の前庭へ回り、正面門を飛び出す。緩やかに蛇行する丘の白銀の斜面には、足跡ひとつ付いていない。足を踏み出せば下駄が雪に沈み、数歩行くごとに前につんのめりそうになる。咄嗟に歩道の手すりを掴むと、火傷のような痛みが走って慌てて手を離した。  ——いまさらこんなことを言って美冬を縛るなら、忘れてくれて構わない。でも……  着物の裾が邪魔してうまく進めない。たくしあげれば、脚の間をひやりとした空気が抜けた。耳元を過ぎる風は凍てつくように痛いのに、帯を締めた背中にじわりと汗を感じる。  ——もう一度、いまの美冬の気持ちが知りたい。俺は、  斜面が終わり、最後の曲がり目を曲がって、私はバス通りへ降りる階段へ飛び出した。  でももう、遅かった。  秋人を乗せたバスは、雪道に二筋の線をつけて、すでにずっと向こうに小さく見えるだけだった。  ——ずっと、美冬のそばにいたい。  耳元から、昨日の秋人の温かい吐息が消えない。  —— 待ってて、くれるか?  *** 「父様、お話がございます」  宿へ戻ると、私は父のいる事務所の襖を開けた。 「なんだ美冬。今朝は雪の後で仕事が多いのだから、手短に……」 「今度の御見合いは、お断りさせていただきます」 「なっ……」 「父様」  床につけた指を揃えたまま、顔を上げる。 「女将として、自分でみずから愛した方と以上に、互いに支え合い、宿を守っていける男性(ひと)がいるでしょうか」 「突然……何を言い出すんだ」 「秋人に私の呼び方を改めろなど、いらぬことを仰ったのは父様と聞きました」  父の口が、何か言おうと開きかけて固まった。 「秋人の御父様が仏蘭西の方だからと言って、日本の伝統を理解できないなどとお思いになられたのですか? そんなことはありません。あの人はここで育ち、日本のことを愛しています」  そうひと息に言ってひたと父を見た。 「だからと言って……あの西欧の家の者が由緒ある我が宿の品位を理解し、肩を並べられるはずも……」 「やはり父様はそうお考えになって、秋人に何か余計なことを仰ったのですね」  無言で私を睨み据える父の目も、今日は怖くない。 「西欧人の御父様から西欧の文化伝統を学んでいるからこそ、秋人には日本の伝統の細やかなことも、私達が日頃気づかぬところまで見えるはずです」 「何を」 「あの人は必ず、立派な板前になります」 「板前だと?」 「秋人は京都の飛燕(ひえん)に弟子入りに行かれました」  京都の飛燕といえば、古都でも五指に入る和懐石の名店だ。横山さんをはじめ、歴代の本多屋の板さんにも飛燕の出の方は多い。 「父様、今はもう時代も変わったのです。本多屋にも外国のお客様が増えました。父様のご言い分の通りでしたら、外国の方を受け入れない主人が、どうして彼らが最上と思われるおもてなしが解ると言うのです」 「それは……」 「私は秋人を待ちます。待たせてください」  本多屋は、母が祖母から引き継ぎ、父とともに、娘のに伝えようとしている。 「私は女将としてであると同時に、本多屋のとして、この宿を継ぎたいのです」  母と父の一人娘として、いまの私を育てた。それが本多屋だ。 「美冬はあの人を待って、一緒に本多屋を守ります」  幼い頃から父に叩き込まれた最も丁寧な礼をして、私はすっと襖を閉めた。  こんなにはっきりと父に意見するのは初めてだった。胸に手を当てると、まだどくどくと鼓動している。瞼を閉じて、息を大きく吸った。  背筋を伸ばし、帯をきゅっと直して振り返る。すると、そこには母が立っていた。  母はこれまで見たことがないほど優しい笑顔を浮かべ、瞳に強い光を讃えて、私を見つめたまましっかりと頷いた。  ***  あの日以来、横山さんの協力もあって、京についた秋人とは定期的に便りをやりとりしている。便箋に綴られる秋人の言葉に励まされながら、私も少しずつ母の仕事を身体に叩き込んでいた。忙しさは日々が過ぎゆくのを早め、待つ時間を忘れさせた。  秋人が出発してから、この季節が来るのも五回目になる。桜が咲いたその日に、秋人からの便りが届いた。  今日も、忘れ雪が本多屋の庭の桜を真白の綿で飾る。  でももう、私はあの日の想いを忘れることはしない。  雪と桜花が舞う今夜、私はきっと、窓を叩く雪の音を聞く。  ——了
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