前編 雪

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前編 雪

「ごめん」  あの日、ほのかに色をつけた桜の花びらを、真白の雪が美しく飾っていた。  初恋は実らないという、言い古された言葉が本当であるのを知った。  忘れ雪と一緒に置いてきたはずなのに、舞い降る雪の中に見たあの人のことを、冬にも、春にも、私は瞼の裏に見ていたのかもしれない。  ***  風光明媚と(うた)われる桜の名勝に建つ私の実家、本多屋は、数百年と続く老舗旅館だ。宿の周りを飾る四季折々の草木や丘の上から海を望む景観が評判を呼び、大旅館ほどもない少ない客室数がこれまた静けさを好まれる方々を惹きつけ、一年中客足は途絶えない。  とりわけ寒さ厳しい地にあって、うっすらと白化粧した庭園の樹木が実に風雅というこの宿には、もう一つ、雪桜の名宿(めいしゅく)という呼び名があった。  丘の斜面を桜の花が薄桃色に飾ってなお、思い出したように雪が降る寒の戻り。花びらが雪被(ゆきかぶ)る様子を眺めるのも一興と、春分を過ぎた頃を目指して訪れるお客様は特に多い。  生まれてからずっと、一日も欠かすことなく見てきたこの丘からの景色。  今年もまた、花に雪積もる季節がやって来た。 「母さま、西の離れのお客様の御膳(おぜん)、全部下げました」  食堂の洗い場に母を見つけて、私は暖簾を上げて少し声を張り上げた。もう他の客棟からも夕食の御膳が返って来ていて、洗い場は水音と食器の触れ合う音で騒がしい。 「ああ、ありがとう美冬。御膳、まだ外に置いておいてくれる? こっちに場所がないのよ」 「はい」  運んで来た御膳を洗い場の外の台に置き、私は暖簾(のれん)を潜って着物の袖を折り上げる。厨房の奥を見やると、いつもなら板前の横山さんが明日の朝食の下拵えをしているはずなのに、今日はその大柄な白の作務衣姿が見えない。 「横山さんの御加減は?」 「大したことはないみたいだけれど、もう御休みになってもらったわ」 「そう……板さんがいないとやっぱり厨房も寂しいですね。あの横山さんが立ちくらみなんて大丈夫かしら」 「もう御歳(おとし)だからねぇ……そろそろ跡を継いでくださる方を見つけないととは思っているのだけれど……」  洗いの手を止めぬまま、母がほぅと溜め息を吐く。母の横に並んで洗い終わった食器を拭こうと布巾を手に取ると、入り口の方から高い声が飛んで来た。 「まぁぁ若女将(わかおかみ)、片付けなどは私がいたしますから! 御具合お考えになってもう御休みくださいまし!」  前掛けで手を拭きながらあれよとこちらに歩み寄って来たのは仲居頭の根尾さんだった。御歳(おとし)を召された御顔(おかお)の皺が、眉間(みけん)のところでいつも以上に深くなっている。 「もう根尾(ねお)さん、やめてください『若女将』なんて」 「いいえ、根尾はやめません。来週には御縁談のお話も出ていらっしゃるじゃないですか」 「お相手が気に入ってくださるかは分からないのよ」 「また美冬さんは呑気な。二十歳(はたち)を御過ぎになった御自覚をお持ちになってくださいまし。根尾はもう御迎えが近いんですからね」  御若い頃から何十年とうちの旅館で働いていらっしゃる根尾さんは、私を孫のように思って下さっている。そのせいか、この間ちょっとした縁談の話が上がってからというもの、ことあるごとにこの話を持ち出して来てしまう。  苦笑いでやり過ごそうとしたら、隣でキュッと蛇口を締める音がした。 「美冬、どこか具合が悪いの?」 「あ、大したことはないんです。いつもの生理痛(あれ)ですから」 「大したことですとも。根尾が代わりますからお部屋に御戻りください」  タイル張りの洗い場は、水音が消えると途端に声がよく通るようになる。囁き声にしても聞き耳を立てている根尾さんには無意味だった。聞かなかったことにして次の皿に手を出すと、母も眉をひそめた。 「本当に今日はもう休んでいいわよ。雪も激しくなってきたし、身体を冷やすわ」 「そうですとも! ほら早く」  気遣(きづか)わしげな母の前に割って入った根尾さんから布巾を取り上げられ、私は背中を押されて扉の方へ追いやられた。仕方なしに就寝の挨拶を告げて暖簾(のれん)の外に出ると、そろそろと客棟の廊下を自室のある別棟へ向かう。  日本列島の他の地に遅れてやっとここにも桜前線が来たと思ったら、先週末からまた急に冷え込み、昨日からはついに雪もちらつき始めた。あっという間に庭に白く降り積もった雪のおかげで、屋外になる別棟への渡りはしんと冷え、床を踏む足袋(たび)の指先に痛みが走る。  裸電球に照らされた薄暗い廊から庭を見ると、塀の上に枝の形をした白い線が伸びている。枝が雪を載せたおかげで、夜闇の中に桜の姿がくっきりと浮かび上がっていた。 「縁談、か」  ふと、口から(こぼ)れた。  大旦那である父が一人娘の私に用意した御見合い話。お相手について母は何も口にしなかったけれど、父は跡取りとして不足なしと、もう決まったような話しぶりだった。ただ私は、その方のことは父の友人のつてというほかは全く知らない。もとより本多屋を継ぐ自分にとって恋愛結婚など想像していないし、御見合い結婚に別に不満があるわけでもない。むしろ女将になるべき者として当然の運命だと思っている。  でも、今日みたいな雪の日にそんな話が出たからだろうか。雪結晶で光る桜の花が、遠い記憶の中から脳裏に(よみがえ)った。  自室に着いて羽織を脱ぐと、私は帯を少し緩めてベッドに腰掛けた。本棚に並ぶ写真立てが目に入る。女子高校の学級写真の横に、中学校の卒業写真。寒空を背景にした集合写真の中に、あの人の姿を見つける。  人生最初で、確実に最後の、失恋相手。
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