火山島の白い家

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 その夜カミノ氏と私は、まだ暗くなりきる前に邸を出て、黙って坂道を降りて行きました。邸は島の一等地にあって、山の麓に立ち並ぶ白塗りの家屋を一望することができ、その下方には海が広がっています。町は一様に紫の靄に飲みこまれ、祭を彩るランタンが灯りはじめているのが遠目に見えました。私はこれが仕事のうちなのか、それとも日頃の労働を労うためのものなのかわからず、一着しかない黒い仕事着を着てきました。道の両脇には露店が増えてきて、目を奪われました。即席のテーブルの上に並べられたできたての料理やスナックや飲み物。いつも決められたものしか買うことのできない食べ物が、今日ばかりは自由に買うことができるのでした。 「何か食べましょうか」  色とりどりの綿菓子を売っている露店がひときわ賑わっていて、カミノ氏は迷わずそこへ近づいていって、まるでその色を買うと決めていたみたいに黄色い綿菓子の棒に手を伸ばしました。 「食べなさい」  カミノ氏はまっすぐに差し出しました。  ありがとうございます。おずおずと受け取り、歩きながら一口舐めとると、口の中でレモン味の酸っぱさがじわりと溶けてなくなり、まぶしてあったキャンディーが目眩のようにパチパチと弾けました。  目抜き通りにある石畳の広場は電飾やランタンで飾られ、すでに溢れんばかりに人々が集いお酒を飲んだり談笑したりしていました。広場の隅に腰かけて祭りの様子を楽しげに眺めている老人たちや、露店で買ったおもちゃを振り回しながら脇をすり抜けていく子どもたち。中央には広めのステージが組んであり、極彩色の獣や鳥たちのような衣装やお面を被った楽隊が、奇妙な楽器の調弦をしていました。その時、にわかに喝采が起こり、いっそうきらびやかな衣装を纏った熊のような女の人がステージへ登りました。ピンクや青、緑で彩られた、足のつま先まである衣装、青い大きな鳥の羽と動物の骨をあしらった綺麗な頭飾り。私はその堂々たる姿に圧倒されてしまい、女の人から目を離すことができませんでした。会場を見回し最初の一息を吸う瞬間、広場は沈黙に包まれました。  女の人の唄声は、意味のある音なのかどうか、土のような太鼓の音に乗せて、地面に空いた穴から、大地が呼吸をしているような不思議な声音が広場に響き渡りました。音楽の主体は太鼓の地鳴りのようなリズムで、聞いたことのない独特の規則性を持った短いリズムを繰り返し刻んでいました。声とリズムは一体となって絡まり合い、聴衆は吸い寄せられるようにステージ前の空間に躍り出て、体を揺らし始めるのでした。 「この島に古くからある舞踊歌だよ」  カミノ氏は昆虫の生態を解説するように言いました。言われてみれば彼らの演奏する楽器はどれも珍しい形で、素朴な音色を奏でています。楽譜はなく、女の人が即興でフレーズを決めて太鼓の演奏者に合図を送っているようでした。女の人は指揮者でもあるのです。彼らの息はぴったりで、女の人は思うままに曲の行く末を操り聴衆の心を配下に置いてしまいました。  曲は白熱し、演奏というより地鳴り、唄声というより求愛する獣の咆哮といった様相で、地底の熱が足裏から脳天まで駆け上がるように響き渡り、聴衆は全身を激しく揺すり足を踏み鳴らしました。私は遠巻きにその様子をじっと眺めていましたが、カミノ氏はふいに踊ってきたら、と言いました。  私は踊りの輪の中に入りたかったのです。言われるがまま、うごめく人波に足を踏み入れ、おそるおそる、私のつま先はそのリズムを刻み始めます。見様見真似でぎこちなくステップを踏むと、混濁するうねりの中で、人びとと一体になれたような悦びが、体の芯を奮い立たせました。  はじめのうちはよかったのです。でも時間が経つうちになんだかうまく踊れていないような気がしてきました。ここにいる人たちは体と心が分かち難く一体となっているのに、私は命令を下さないと体が動かない。ひとりでに歌うことも踊ることも叶わないのです。まるで偽物なのです。踊ることができる悦びを謳歌する人の表情を真似て、私も同じように手を叩いて体を揺らしてみるのですが、足元は頼りなくふらつき腕はぎこちなく空を切り、テンポは常に遅れます。自由に思うがままに筋肉を動かし、我を忘れて踊りたい。けれどそうしようとすればするほど欲しいものは遠ざかっていき、惨めさは瞬く間に心を濁してしまいました。朗々と唄いあげる女性への憧れとは裏腹に、私は恥ずかしさで全身を縛られ動けなくなっていくのです。  曲が終わった時、人びとの感嘆のざわめきは私を嘲笑しているかのように聴こえました。私は人びとの間に必死に視線を走らせてカミノ氏の姿を探しました。ようやく、事の成り行きを見つめていたカミノ氏を視界に捉えると、私は心底ほっとして頬が緩みました。カミノ氏もまた、私を見つめていました。  私たちは言葉少なに川沿いの道を歩いていました。カミノ氏の動作には少しの迷いもありません。私は想像しました。名前も顔も知らない女性が、黄色い綿菓子をつまみ、広場でリズムに乗って上手に踊ったあと、川沿いをカミノ氏と並んで歩いている。その肩にはカミノ氏の夏物の上着がかけられ、二人は固く閉じた貝殻のようにぴったりと、寄り添い合っている。  道沿いの塀の向こうには黒い淵が、星の光の届かない海が広がっています。踊りの喧騒がまだかすかに耳に残っていました。人混みが引いていくのと入れ替わるように、川の水面には小さな舟型の灯篭がどこからともなく流れてきては、頼りなく集まったり離れたりして漂いながら、河口へ向かって水面を滑っていきました。 「きれいですね」そう呟くと、カミノ氏の視線を首のあたりに感じました。 「星祭りはね、ほんの少し前までは死者を弔う日だったそうだよ」  カミノ氏の声はいつもの、私を叱責するときと同じようでいて、どこかひっそりと親しみを感じさせるものでした。あの舟には死者の魂が乗せられているのでしょうか。私は淵に浮かぶ灯篭の、肉体から離れて自由になった魂のひとつひとつに思いを巡らせました。灯籠は黒く広がった海のどこへ流れていくのでしょう。 「はじまりは火山の噴火で亡くなった人びとを弔うためだとか、火山の神の怒りを鎮めるための生贄の儀式だとか、諸説あるようだけどね」  カミノ氏は時折、きちんと耳を傾けているかを確かめるようにこちらを伺います。カミノ氏は私が知る由もないような学殖を蓄えていて、つぎつぎにその口から言葉が生み出されているとき、私は従順な生徒のように頷き耳を傾けているだけでよいのでした。そのとき私の口は閉じているからです。カミノ氏が黙したときを、私は心の内でとても恐れているような気がします。 カミノ氏はふわふわと漂い足元の覚束ない私を支えるように、ふいに腰を抱きました。私は急に逃げ出したくなりました。けれど拒むことができないのは、私が幼い頃の記憶を持たないからでしょうか。私は繰り返し、あの星祭りの夜より前にあったはずの暮らしの肌触りを思い出そうとします。子どもの頃に寝ていたはずのベッドのシーツの手触りや、大切にしていたおもちゃ、よく食べさせてもらっていたスープの味などを。未亡人が恋しい人の感触を蘇らせようとするように、難民が温かい我が家を懐かしむように。けれどうまくいかないのです。  人から与えられるものは何であろうとも際限なく欲してしまうような、はしたないところが私にはあります。与えられなければ死んでしまうというほどに飢えているのです。この欲の深さは、私の拙い言葉では到底表現できるものではありません。私の内側の、体の中心にあたる部分が底なしの空洞のように絶えず飢えている。飢えがどこからやって来るのか、いつからこの身に巣食っているのか、私はしばしば思いを巡らします。
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