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雨がいつまでも降り続いていました。
洗濯室からは、中庭やその向こう側の廊下も一望することができました。ヤスの二枚目のワイシャツにアイロンをかけ終えたとき、向こう側の廊下に面した、礼拝室の扉が開いて出てきた人影がありました。雨粒に濡れた芝が薄暗い曇り空の下で妙に明るく光って見えるのと対照的に、暗い廊下を静かに進んでいく黒い塊は瞬きをしたら見失ってしまいそうでした。
「窓の外を眺めてはならない」
私は決まりを思い出し、手元へ視線を戻しました。カミノ邸は私邸のようであっても文化財としての価値を持っていますから、管理や修繕は何かとこまめに行われていました。カミノ氏の手配した専門の業者が私の知らぬところで邸の中を歩き回っているのはよくあることでした。またどこかの部屋の天井と壁の漆喰にヒビが入ったのかもしれません。左官屋はヒビをものの数分で元あったように埋めてしまいます。
「どちらさまでしょうか」
男は振り返りました。ちょうど大きな玄関扉を押し開き、真っ黒い蝙蝠傘を差そうとしているところでした。男は山高帽を被り、長い外套を着ていました。
「あなたでしたか」
男は私の顔を舐め回すように見ました。男の目鼻立ちは平凡としか言いようがなく、瞼を閉じたらもう思い出せそうもないようなつかみ所のない危うい均衡を保っていました。男の言葉の真意を掴みきれないでいる私を見かねたように、男は「よく似た人を知っていたもので」と言いました。
男は玄関扉を一度閉め、懐から黒革のケースに入った身分証のようなものを取り出しました。そこには葬儀社の名前が書かれていました。何か、嗅いだことのない薬品の臭いが鼻をつき、どうやらその出所は彼の持っている鞄のようでした。マチが広く、重そうに膨らんだ鞄です。外から入り込んだ雨の匂いと混じって、一瞬、懐かしさのような眩暈を覚えました。
「あなたとは、はじめてお目にかかりまね」
漆黒の山高帽に外套と、埃ひとつ付いていない磨き上げられた黒革靴は、葬儀社の制服なのかもしれないと思いました。
「私どもは地下室にあるものの管理を任されておりまして、定期的にこうしてお宅へ伺っているのです」
男はそう説明しました。私は闇に紛れて島じゅうを徘徊する、たくさんの真っ黒い影を思い浮かべました。しきりに銀色の腕時計を気にする山高帽の男の声が「それでは急ぎますので」と告げたかと思うと、いつの間にか彼は玄関を出て、雨の中を去っていった後でした。
男が出てきた礼拝室の扉をゆっくりと開けると、調度品たちが一斉に息を詰めたような気がしました。そこは修道院にあるような小さな御堂で、薄暗がりの中に、祈るための長椅子がふたつと、正面の壁には小ぶりな十字架が掲げられているだけです。
箒を手に持ち、ホコリや塵を掃いた後、椅子や窓枠など、埃が溜まりそうなところを拭き、バケツに水を汲んできて端っこから床を水拭きします。決められたことを、決められた手順で、過不足なく。手を動かしているとき、私の心は空っぽになり研ぎ澄まされていきます。雑巾の布地の湿り具合、掃き終わった埃のゆくえ、床の木の材質、それらが奏でる音や感触に没頭しているうちに、他のことはひとりでに頭の中から消えてしまいます。たとえば爪先をぴんと伸ばして運動場を行進するように、長い長い配給の列に並んでじっと待ち続けるように、私の傍には見えない監視者がいて、きちんと手を動かしているか、休んでいないか見張られているような気分がいつもありました。
作業が終わるとき、支配していた感触はたやすく私の外へ流れ出て、二度と戻って来ることはありません。過ぎていった一日は驚くほどに短く、そして、これから訪れる一日は気が遠くなるほどに長いのでした。
私は掃除する手を止めずに、十字架とは反対側の壁の隅の、丁度暗がりが濃くなっているあたりに目をやりました。そちらの壁には、少し屈まなければくぐれないくらいの小さな木の扉がありました。とうに輝きを失った真鍮のノブのすぐ下に、黒々と光を通さない、鍵を差し込むための空洞があります。いつもしっかりと施錠されていて、奥に何があるのかはわかりません。隣にはもう一つ部屋がありますから、そう大きな空間が広がっているはずはなく、物置か何かだろうと思いながらも、私はその向こうに全く違う空間が続いているのを想像しました。
この邸の主人カミノ氏はその息子ヤスと、この邸宅にたった二人で住んでいます。カミノ氏の叔父にあたる男は、建築を学ぶ者であれば一度は名前を聞いたことがあるというほどの建築家です。彼は引退後、人知れずこの島に移り住みひっそりと生涯を閉じたのですが、その終の住処が最後の作品にもなったこのカミノ邸でした。「カミノ邸」と名付けられた邸は世界中にいくつかあるらしいのですが、ここは建築通の間ではわかりやすく「火山島のカミノ邸」と呼ばれています。
白い壁が特徴の平屋で、決して大きくはありませんが、島の港に入ってきた船からでも、山の中腹に木々に囲まれた白い四角い建物を見ることができるはずです。中庭を囲む四角い廊下、客室や礼拝室など、様々な用途の部屋を擁しているのですが、外からはその全容はほとんどわかりません。閉じられていること、それが彼の作品に通底するポリシーのひとつでした。内と外が繋がり、解放されすぎている建築は住まう人にとって居心地の悪いことこの上ないのです。空間を区切って視界を遮断する、風景を隠して見えるものを限定するといった工夫を施すことで、かえって人はその向こうの広がりを想像する。どう閉じるかを計算し尽くすことで、安らぎを与えたり、神聖な気持ちを抱かせたり、美しいと感じさせることができるのです。邸の現主人であるカミノ氏はこういったことをもっと専門的な、人を惹きつける言葉でもっていつも熱心に語っていました。無駄を削ぎ落とした当時全盛のモダニズムと、信仰と祈り(建築家は敬虔なカトリック教徒でした)、そして強い日差しが照りつける彼の故郷の色彩感覚。それらが融合し調和を成し、彼の最後の作品にふさわしい独特の静謐さを作り上げていました。
飛行場を持たず交通の便が悪いこの島までわざわざやってくる一般の建築ファンは、今はほとんどありません。彼はこの島に、故郷の小さな島を見ていたのかもしれません。島の大きさや人口、海岸へと続く斜面にびっしりと並ぶ伝統的で素朴な家々、本島と島をつなぐ一日に二本しかない定期便。彼の故郷とこの島を結びつけるものはいくつもありました。
子どもを持たなかった彼の事務所を引き継ぎ、権利関係の仕事を一手に引き受けているのがカミノ氏でした。叔父の設計した各地の建築物についての講演、展覧会や取材許諾に至るまで、カミノ氏は遺されたものを余すところなく活用し収入を得ていました。でもそれもたいした稼ぎにはならず、年中忙しくしていなければ立ち行かないようでした。
深夜カミノ氏とヤスが寝静まった頃、台所の勝手口を施錠し、私は薄暗い洗濯室へ向かいます。バックヤードの奥の奥、洗濯室は屋敷のどん詰まりにあり、カミノ氏やヤスでさえもめったに姿を現しません。代々のお手伝いさんがどこで体を休めていたのか分かりませんが、備え付けの棚に囲まれた小さな部屋の片隅にみすぼらしい木のベンチがあり、たぶんこのあたりであったという気がします。大きなカゴには洗う前の洗濯物が潤沢に折り重なり、暖をとるにはもってこいでした。朝の水やりや朝食の準備をはじめる時刻まで、そうありません。早く寝付こうと、私は仕事着を脱ぎはじめました。服の下の湿った素肌に自分の手が触れる感触が嫌で、いつも時間がかかってしまいます。
衣食住は一応与えられているけれど、自分の部屋があるわけではないし、家族の一員として認められているわけではない。住所はここですが、訪ねてくる人もいなければ手紙も来ない。私は何なのでしょう。この家に存在するようでしていない、邸の影に隠れるようにして生きる家具や食器のひとつのような、そんな心地でした。
洗濯室へ入る手前に、背の低い粗末な本棚が置いてあります。長い年月のうちにニスを塗り重ねられて表面の凸凹したその本棚には、いつかのお手伝いさんが残していったらしい書籍や置物が並べられていました。どれも日に焼けて色褪せ、忘れ去られてしまったものたちです。観葉植物の栽培について記された本、ハーブの栽培と保存法を記した本、美しい所作とマナーの本、倹約の大切さを説いた本、洋服の型紙を集めた図録、中世の宗教画集。その本たちの隙間にひっそりと、一冊のスケッチノートも挟まっていました。小豆色の布張りで、画集のように大きく、痛みが目立つ古めかしい本たちに比べると綺麗な姿を保っています。開くと無地の薄い紙の上に、鮮やかな色鉛筆で刺繍の図案がびっしりと描かれています。植物の実や花、葉を象った図柄、犬にも狐にも見える獣が並んでいる図柄、水を思わせる渦巻きが連なっている図柄。何を描いたかわからない抽象的な模様もありました。東欧のほうの柄だと言われればそうも見えるし、中東やアジア、はたまたアフリカの原住民の紋様だと言われても納得してしまうような、素朴な雰囲気を纏っていました。刺繍を刺したことのない私が見ても、確かな技術と才能を持っているとわかる見事な図柄でした。絵の脇のほうには、タイトルのような短い言葉が添えられています。「カラタチと蝶」「向かい合う二羽のホロホロチョウ」といった具合に。ほとんどの図案は、本邸のあちこちにあるラグやマット、コースターなどの上で慎ましやかに布を彩っているのを見たことがありました。きっとこれを描いたお手伝いさんは、せっせと刺繍を刺しては、その布で邸を飾ってきたのでしょう。カミノ邸の質素な内装に、そのシンプルな模様は、昔からそこにあるかのようによく馴染んでいました。スケッチノートの裏表紙には本文とおなじく几帳面な文字で、エリという持ち主の名がサインしてあります。
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