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私は掃除用具を持って、礼拝室へ滑り込みました。他の部屋に比べれば小さいですが、礼拝室にも窓がひとつありました。朝から雨が降っていて、弱々しい光が長椅子の形を辛うじて浮かび上がらせているだけでした。食堂や客間の窓がはめ殺しなのに対して、この窓は下半分を上げ下げすることができるのですが、今日はほんの少し開いていました。カミノ氏が閉め忘れたのかもしれません。歩み寄ると、窓枠のところに手のひらほどの全長の、ほっそりとしたトカゲが乗っていました。目を見張るような鮮やかな緑色の体を持ち、尻尾にかけてゆっくりと青っぽい銀色に変わっていきます。太くしなやかで、鱗のひとつひとつが女神様の甲冑のように虹色に輝いていました。もっとよく見ようと近づくと、トカゲは素早い動きで窓枠を飛び降り、雨のベールを被った緑の中へ消えてしまいました。
私はどこにも隙間がないよう、力を込めてしっかりと窓を閉めました。
室内へと目を向けると、壁には件の開かずの小さな扉が付いています。ゆっくりと近づきノブに手をかけてみましたが、やはり施錠されていて回りませんでした。
その扉へご用ですか。
跳びあがって振り返ると、いつかの山高帽を被った外套姿の影が、礼拝室の入り口のところに立っていました。雨の気配に混じってあの薬品の臭いが俄かに漂ってきました。
彼は地下室にあるものに用があるのでした。私は作業の邪魔にならないよう部屋を出ていこうとしましたが、彼はそれを引き止めるようにして、外套のポケットから小さな鍵を出してみせました。
お入りになりますか。この家の方々は、あまり私の言葉に耳を傾けてくださらないので困っているのですよ。あなたにお願いできるなら助かるのですが。
お願いされると断れない質の私がどぎまぎしている間に、山高帽の男は扉へと歩み寄り、持っていた鍵を穴に挿し込んで静かに回しました。すると、背の低い扉は、ゆっくりと開いたのです。
その先には何者も突き通すことができない、掬い上げることのできない闇がありました。人ひとりが屈んで通れるくらいの狭苦しいコンクリートの階段が、カーブを描いて下方へと消えていました。礼拝室の光はその向こうへは届かずに、冷え切った臭気と湿り気だけが這い上がってきていました。けれども暗闇は、抗いがたい引力で私を奥へ奥へと呼んでいるのです。
山高帽の男はレディーファーストとばかりに、先に入るよう促しました。私は意を決して、土竜の巣穴のような階段を手探りで、一段ずつ降りていきました。螺旋のようなカーブを降りるうちに、上下も左右もなくなり目を回しているような不思議な感覚が訪れました。指先を壁に這わせたまま進んでいくと、やがて、階段の終わりにたどり着きました。全身が水に浸かったような冷気、全くの暗闇の中、私は壁に背中をつけてしばらくじっとしていました。唸るような空調の音が低く響いています。壁を探ると、指に照明のスイッチが触れました。電球が一つぱっと灯り、コンクリートの低めの天井と壁に囲まれた一室が現れました。
山高帽の男も地下室へ降りてきました。成人男性が通るには、体を不自然に折り曲げなければ難しかったでしょう。彼は天井にこすれてずれた帽子を片手で被り直しました。
部屋の中央に目を移すと灯りの下にぽつんと簡素な寝台があり、その上に何かが置かれていました。何だかは、すぐにはわかりませんでした。布を巻きつけられた家具か、古い織り機、楽器のようなもの。あるいは壊れたマネキンか何か。私は息を詰めて凝視しました。太い棒が二本。その先に何か付いている。つま先。するとあれは足で、頭で、腕が付いている。それは包帯を巻きつけられた人の形をしていました。
私に訪れたのは驚きというよりはむしろ、認識でした。私は予感していたことがこの身に訪れたことを味わおうとそれを凝視しました。雷に打たれた人のように髪を逆立てながら。ずっとそこにあったものに気づきぎょっとして飛び退くようなおぞましさと、逃げることのできない仄暗さを持った、懐かしさのようなものが私を捕らえました。それがいつ来るとも知れない何かを、誰かを、待っていることを私は知っていました。長い間、生まれるずっと前から、邸のそこかしこ、島の斜面に並ぶ家々のドアの陰や、廊下の突き当たりといった暗がりに潜みながら。
私はそれに数歩近づきました。体つきや輪郭は女性に見えました。人形でなく生身の人間だと確信したのは、口が大きく開いていて、そこだけ布に覆われていなかったからです。口内の水分は失われていましたが、綺麗な柘榴色をしていました。彼女が彼女であるための部分、心を映し出すはずの両の瞳は、リネンの包帯に覆われていました。
布をとっても? いいえ、いけません。防腐処置をしている最中ですから。男は首を振りました。私は自分の大胆さに驚きながら、すみませんと謝りました。
これは、どなたですか。私が尋ねると、山高帽の男は困ったように首をかしげる。
ご存じないのですか。
彼女が誰であれ、葬儀屋のやることは変わりませんよ。我々はご遺体を埋葬の日までお世話する。声を聞くのです。ですがどういうわけか、彼女からは何の声も聞こえてきません。
遺体がしゃべるとでも言うのでしょうか。私は占い師の言葉に耳を傾ける人のように、身を委ねるかは保留にしたままただ流されるように頷いていました。
よろしければ、彼女を弔う手助けをしていただきたいのです。何も難しいことはありません。彼女はそれを待っているのですから。
山高帽の男は囁きます。動くことも喋ることもできないこんな姿で何を待っているのでしょう。私は、布で覆われた彼女の、目があるあたりのくぼみを、じっと見つめました。
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