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絵梨が生まれてから今までに、フェリーに乗るはずだったことは二度ある。一度目は二泊三日で本島へ行く中学の修学旅行で、大時化のために船は一週間に渡り欠航になり、旅行は中止になってしまった。
二度目は晴れた日で、明るい青緑の海面は凪いでいた。その日は、クラスメイトの由美と高校の入学説明会に行くことになっていた。その小さな離島には高校がなかったので、わざわざ本島の公立校を受験して毎日一時間半かけてフェリーで通わなければならなかった。島の中学の先輩たちも皆そうしてきたし、絵梨もきっとそうするだろうと思っていた。けれど中学二年生の夏に、絵梨の母親は家族を残してどこかへ消えてしまった。どうしていなくなってしまったのか父親に聞いてみても、自ら家を出ていったんだ、理由はわからないということを言葉少なに繰り返すばかりで、それ以上のことは語ろうとしなかった。無理に問いただしても態度を硬化させるばかりで、しだいに母の話をするだけで機嫌を損ねるようになったので、絵梨は母親について家の中で話すことをやめてしまった。
絵梨の父親は兼業漁師をしていて、祖父の代から受け継いだ「舌喰丸」に乗って午前中はだいたい近海へ漁に出ている。午後は港近くの馴染みの店で独り酒を飲むことが多く、夕方ごろになって左右に揺れながらゆっくりと坂道を登って帰ってくるのを、絵梨は台所の格子窓から見ていた。弟はまだ遊びたい盛りの小学生だったから、母がいなくなってから家事の一切は絵梨が担うようになった。父親は以前より、朝の着替えセットから食後のお茶の用意まで母親にやらせていて、その一つでも欠けると、寂しい、もっと敬ってくれなければ嫌だと声を上げる代わりに不機嫌になり、何か全く関係のない因縁をつけては、最終的には家具や食器や、時には母にも手をあげるような人だった。
母がいなくなって間もないある日、家の上がり框に腰掛けて酔いを冷ましている父親に、絵梨は声をかけた。父親は仕事に忙しくこれまでほとんど家に寄り付かなかったから、改まって声をかけるとき絵梨は緊張した。
「来週、高校の説明会に行きたいんだけど」
父親は左右の揺れを停止させて絵梨を見た。日焼けした肌に眼球が青白く光っていた。
高校にはやらん。父親は静かに言った。金銭面の問題であるとか、弟の進学が控えているとか、母親が不在だからその代わりをしろというような、言外の事情が詰まった一言であったから、その結論は簡単には覆らないような気がして絵梨は口を噤んだ。その沈黙を肯定と受け取った父親は、機嫌を悪くする機会を失って、鮫のように玄関のモルタルを敷き詰めてある土間をうろうろと二周したあと、サンダルを脱いで寝室の方へ歩いていった。絵梨はしばらく、その不安定な背中が消えていった暗闇を見つめていた。絵梨は決して反抗的な子どもではなかったし、与えられた条件の中で折り合いをつけることができる子であったけれども、その時ばかりはこのまま引いてしまってはならないような気持ちになり、すぐに父親の後を追った。
「家事ならちゃんとやるし、お金のことが心配ならバイトもするし」
絵梨は努めて冷静に、抑揚がつかないように話しかけた。父親は自室の畳の上に敷いてある布団にうつ伏せになって休んでいた。草臥れた綿の肌着を纏った痩せこけた背中からは不機嫌が立ち昇ってきていて、耳をそばだててじっと聞いているのがわかった。
「ねえ。これはお父さんが勝手に決めていい問題じゃないんだよ。前から行くって決めてたしそういう話だったじゃん。いきなりそんなこと言われても、こっちにも将来設計ってもんがあるし。やりたいこともあるし。一体中卒でどうするの? あ、なにか事情が変わったの? それってお母さんが出てったことと関係ある? 聞いてる? いい加減、聞いてないふりはやめてよ」
言葉が頭の中で渋滞を起こしてパニックになりかかったときに、父親はようやく口を開いた。
お前の話はどうでもいいから足を揉めよ。
狩人が動物を罠にかけるときのような優しい声で。仕方なく絵梨は寝そべる父親の背後に歩み寄り、トランクスから露わになった二本の足の間に座り込んだ。小学生のころ、この姿勢でよく父親のふくらはぎあたりを揉んでマッサージをしてあげていた。今は、別人にしているようだった。張りのない乾いた皮膚を恐る恐る撫ぜる。憮然とした、布一枚しか纏っていない背中が腹立たしい。
……ねえ、どうでもよくないよ。どうでもいいわけないでしょ。ていうかお父さんに許可をもらわなきゃいけないことなのかな。私どうしても行くから。自分で払うことになっても行きたいから。口出さないでくれる?
そう言い終わるか言い終わらないかで、絵梨の視界は反転した。父親は絵梨の髪の毛を掴んで、反対の拳で頭蓋を殴りつけた。咄嗟に防御したのでさほど痛くなかったけれど、こうなってしまうと止まらないことを絵梨は知っている。一旦距離を取ろうとしたけれど髪の毛を掴まれていたから再び床に引きずり倒される。遠ざけられた、と思ったらまた引き寄せられる。痛めつけるためにそばに引き寄せられる。大波のよう。何ひとつ絵梨の思うがままにはならない時間がやってきた。痛みに、思いがけず涙が溢れていく。絵梨の家は特別に躾が厳しい。いい家の子だからね。箱入り娘だからね。
さめざめとした絵梨の嗚咽が室内に響き渡ると、やがて嵐は止んだ。
生意気いうからだよ、なあ。
馴れ馴れしい猫撫で声になった父親は絵梨の頭を撫でると、手首を掴み、背中のブラジャーの紐があるあたりに手を添えて立ち上がらせようとする。絵梨は退けぞった。だいじょうぶ? 父の纏う雰囲気が輪郭をなくして甘ったるく溶け出した。知っている父親の体の内側から怪物じみたおぞましい目がこちらを見ている。絵梨は子供の頃に見たテレビ番組を思い出していた。水の匂いを求めて旅を続けるシマウマの群れが淀んだ河を渡っている最中に、子供が一頭、ワニに足を取られる。子供は先へ進むことができずに水の中でもがいて、必死に抵抗する。ワニは一度捉えた獲物を決して離さない。右へ左へ引き摺り回しては、少しずつ深みへと引き摺り込んでいく。もう一匹ワニがやってきて、子供の喉元へ噛み付く。子供の頭部は強い力で水の中へと沈む。幾度か激しい水飛沫を上げながら、けれど子供はついに見えなくなる。さいごに少しだけ顔を出したとき、その瞳には諦念と少しの安らぎが浮かんでいる。母親は為す術なくそれを見守っていたが、やがて諦めると、群れへと合流していく。
絵梨は父親の手を思い切り振り切って、転がるように寝室から飛び出した。父は追っては来なかった。廊下を早足に自室に向かいながら、絵梨はもう幾分気を取り直し、自分の貯めたお小遣いを切り崩してでも入学説明会には行こうと決めた。話だけでも聞いてきて、入学案内の資料を見せながら誠意を持って説得すれば、絵梨のやる気も伝わるし父親の考えも変わるだろうと思った。何に対するやる気なのかは絵梨にもわからなかったが、これから見つければよい。目下絵梨がやり遂げたかったのは、とにかく一度あの青緑色のフェリーに乗る、ということだった。
定期便「カリブ」は、どこか別の自治体から譲り受けたお下がりだと噂されている小型フェリーで、カリブ海を思わせる青緑色のペンキが目印だった。朝と夕方の二往復しかしないこのフェリーを利用するのはもっぱら地元民で、閑散としているわけではないが、混んでいるわけでもない。船内になにか珍しいものがあるわけではないからたいてい乗客は手元を見ているか、海を眺めている。絵梨と由美は船の一階車庫から二階へと延びる吹きさらしの階段を上がっていき、二階の客室を入ってすぐに設けてある窓際の座席に、隣同士で腰掛けた。ペンキの匂いに替わって、長い年月をかけてシートに染みついた汗や食べ物、粘ついた潮の混じったような甘ったるい匂いが鼻をついた。
カンカンカンカンカンカン
出港のアナウンスが船内に流れ終わったすぐ後に、鉄の外階段を登ってくる足音がした。性急に駆け上がってくる不穏さに、絵梨は無意識に身を硬くし、いよいよそれが客室へ近づいてくると立ち上がって逃げ出したくなった。予感を追って、大きな音を立てて開いた扉の向こうにある影を、絵梨は振り返った。
そこには血相を変えた父親が立っていて、近づくなり一発左頬を平手打ちされた。ああまたかと思いながら、絵梨は瞬時に準備を始める、自動的に、絵梨自身は内側に吸い込まれていって、暗く深いところに自分を仕舞い込んでしまう。叩かれた頬というか全身の衝撃は覚えているのだけれど、そこから引きずられていった家までの道のりは、よく思い出すことができない。
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