火山島の白い家

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 カミノ氏は出かけていました。そういう晩は、ヤスと一緒に邸で夕食を摂ります。ヤスはダイニングテーブルに勉強のノートを堂々と広げ、何やら茶色い色鉛筆を塗りつけながら、ときどきフォークで皿の上のポテトと鶏肉のソテーを突き刺し口へ放り込みました。私がカミノ氏に告げ口することはないだろうと高を括っているから、こんなに行儀の悪いことができるのでしょう。私の方も、家族に対するように接してくれるヤスをどこか好ましく思っていましたから、二人きりのときには丁寧な言葉をやめて、気さくに話します。 「これ、山なの?」  私は絵を覗き込みました。 「火山。この島の歴史を調べてレポートしなくちゃならないんだ。宿題だよ。忘れるとクラスのみんなの前で酷いことを言われるんだ。あんなの耐えられない」  教室の張り詰めた空気を思い出したのか、ヤスはすごく嫌だ、と目を見開いて呟きました。 「不思議な格好の人たちね」 「原住民だよ。これは昔の島を描いた絵なんだから」  それはいかにも子どもが描いた、様々な要素や時代がごちゃまぜになった絵巻物でした。島の中央に聳え立つ火山は爆発し、真っ赤なマグマが吹き出している。山の麓のほうでは肌の浅黒い人々が山のほうを見遣り、手を高く掲げて大騒ぎして踊っている。椅子に座った族長らしき人や、儀式のときに使うような祭具を持った者もいる。 「原住民って?」 「もともとこの島に住んでいた人たちのことだよ」  ヤスはそんなことも知らないのかという顔をしました。私の方がずっと年上なのに、私には学といわれるものがまるでないのでした。 「その人たちは、いつからいたの」 「知らないよ。ずっと昔から。その頃、島はその人たちだけのものだった」 「原住民より前に住んでいた人たちはいないの?」 「いないよ。だから原住民っていうんだ」 「じゃあ、その原住民たちは、元はどこから来たの」 「どこかから」 「どこかって、どこ?」 「わからない。どこから来たのか知っている人はもういないくらい、ずっと昔にやってきたんだよ」  ヤスは唾を飛ばし、少しだけ頬を紅潮させて、さも知っているかのように説明しました。 「あとから来た人たちは何て呼ぶの」 「そうだな、たぶん入植者とか。侵略者とか、略奪者かな」  私は比較的おだやかな、入植者という響きが気に入りました。だって侵略したり略奪したなどと言われた日には、罪を悔い改めて直ちにその地から出ていかなければならないような気がするからです。 「原住民はまだいる?」 「まだいるよ。完全な形では残っていないかもしれないけど、生き続けているよ」  私はふと不安になりました。 「入植者は出ていかなくちゃならない?」 「実際には無理だよ。僕たちはもうここに根を張っているんだから。混じってしまったから。片一方だけをきれいに取り去ることなんてできないんだ」  そうか、と私は納得して頷きました。  色鉛筆で描かれた火山島の茶色い稜線は、火口からなだらかに降下し、そのまま海へと消えていくのですが、その延長の沖のあたりには、広場がありました。海の青の中に、エキゾチックな陸地が広がっている。 「これは?」 「先生がね、授業で言ってたんだ。この島に昔住んでいた人たちは、海の向こうに『りそうのくに』があって、死んだらそこへ行けると考えてたんだって。こういう聞いた話をさ、ちょっと入れておくと先生は喜ぶでしょう?」  巨大でグロテスクな葉を持つ植物が生い茂るジャングルの、ぽっかりと土が見えている広場には、人々がいました。それから野生の動物や、鳥たち。食べ物となる花や実も豊富に描かれています。皆、一面に青い絵の具のベールをまとっていました。海の向こうの国です。人々は食べたり、寝たり、談笑したりしている。踊っている人もいる。自由にしてよいと誰かから言われたのではなく、はじめから誰もが与えられていて、存在を疑ったことはないという類の自由さを皆持っているように見えました。  ヤスはまだ、自分もその国の住人になれると信じて疑ったことはないのでしょう。けれど私は恐怖を覚えました。きっと、この理想の国へ行けたとしても、私は何をどうしてよいのかわからず途方に暮れ、周囲の人たちに習ってうすら寒い猿真似をはじめるしかない。私はここの住人ではない、仲間には入れてもらえないかもしれないという、そういう恐怖でした。 「あんたは?」  見るとヤスはじっと私の目を見ていました。  あんたは、どっから来たの? その問いはひどく恐ろしく残酷なものでした。私は私の中に残っている思い出の感触を手繰りよせようとしました。子どもの汗と食べ物が染み込んだ皮張りのソファ、湯気を立てている味噌汁、毛羽立った白い畳の部屋、暖かい掌、分厚い背中に触れた指。忘れているわけではありません。それは私の中にはっきりとあって、ただ繋がりが思い出せないだけなのです。その感触の持つ意味が、在処が。それがどこで、いつであったのかしっかりと覚えていられたら、ヤスの質問に答えることはたやすいのですが。  私が答えられないことなど知っていたかのように、ヤスは手に持っていた色鉛筆を置くと、さいごの鶏肉にフォークを突き立てながら呟きました。 「エリはどこに行っちゃったんだろう」  エリというのは、私の前にこの家で働いていたお手伝いさんのことです。  私にはわからないことだったので、やはり黙っていました。 「ねえあんたは刺繍とかしないの」 「私は、あまりやったことがないの」 「やってみればいいよ。エリみたいにね。これとか、すごいよね」  ヤスは食卓に乗った布製のコースターを撫でました。その少し色黒の、まだ丸みのある湿っぽい指先が、白布に描かれているアイビーの緑色の上を優しく行ったり来たりします。ヤスが以前のお手伝いさんのことを語るたびに、私は苦しくなっていきます。指はしばらくそうして遊んでいて、それからノートの上の原住民たちが踊り明かしているページを閉じると、勉強道具をまとめ始めました。 「地下室へ行ったことある?」  私はごちそうさまをして食堂を出て行こうとするヤスの背中へ声をかけました。彼はドアのところで立ち止まって、くりくりとした目を勢いよくこちらへ向けました。 「ちょっと前まで、あるよ。遊んでたよ、小さい頃はいつでも入れたんだ。でも今は鍵が掛かってる」  あんたは入ったことあるの? と聞き返されて、私は咄嗟に首を振りました。
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