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遺体と私の逢瀬は、家事と睡眠とを終わりなく繰り返す私の生活の中にするりと入り込みました。といっても数日に一度、カミノ氏が出かけているときを見計らって地下室へと降りていき、防腐効果のある薬品を布の上から塗り直すだけなのですが、悟られはしないかと気が気ではなく、長い時間を地下室にとどまる勇気がありませんでした。そこで今日は右腕、次の日は左足といった具合に、地下室へ姿を消している時間を短くして、不審がられないように努めました。その代わりに地下室へ行く頻度はむしろ増え、毎日のようと遺体を顔を合わせることになりました。
助かります。本当はこの前の星祭りの夜に葬いたかったのですが、ご遺体のほうの準備も整っていないようでしたから。あなたにはぜひとも弔いの手伝いをしていただきたいのですが。
山高帽の男は申し訳なさそうにしながら、地室の鍵を私の手のひらに握らせました。
それに私どもも、このところ忙しくしているのですよ。島の火山活動が活発になってきまして。
火山活動がどう関係あるのか全くわかりませんでしたが、私は頷くしかありませんでした。
地下室の正面にあるコンクリートの壁には、先日にはなかった大きなヒビが入っており、隙間から地下水が滲み出て茶色い筋を作っていました。床の隅の方には、水と一緒に流れてきた真っ黒い土がわずかにこびり付いて溜まっています。この黒い色は火山島特有なのだとカミノ氏に教わったことがありました。海底のプレートが徐々に押し上がり、やがて海から顔を出してこの島は出来上がったそうです。火山活動ははるか昔に収まりましたが、島の奥深くで岩盤はゆっくりと胎動を続けています。壁に歪みが出て壊れてゆくのもきっと、無理のないことなのです。
こんにちは、と声を掛けました。幼い子どもがもの言わぬぬいぐるみに親愛を込めて話しかけるようなごく自然な成り行きとして、彼女の身体に触れる前、私は話かけることにしています。茶色い遮光瓶から脱脂綿に薬品をたっぷりと染み込ませて布の上から腕を湿らせていくと、長い間沈澱し動かなかった空気に、その臭いが新しく立ち昇ってきてあたりを掻き回しました。布の下はかつて柔らかかった肌を思わせる硬さで、力を入れすぎないように細心の注意を払いました。
世界には、遺体と暮らす因習が残っている地域があるということを、洗濯室の本棚にある古びた雑誌の記事で読んだことがあります。アジアのどこか小さな島で伝統的な暮らしを営む人々の風習だそうです。彼らの執り行う葬儀には莫大なお金がかかるので、そのお金が溜まるまで、家族は死者を生きているものと考えて同じ居住空間の中に置き、談笑し、一緒に寝起きしたり、ときには風呂に入れたりもするのだそうです。緑がかった灰色の肌に小さな無数の穴の空いた体を、まるでまだ生きているかのように食卓の椅子に座らせ、タバコを吸わせながらカメラに笑いかける人々の姿ははじめ不気味に映りましたが、彼らが家族と生前と変わりなく過ごしているだけだということがわかると、不思議と気味の悪さはなりました。そこには愛情に裏打ちされた親密さがあるものです。けれども、目の前の遺体への扱いは、それとは程遠い、ぞんざいと言わざるを得ないものでした。
腐敗を免れた彼女の体はいつまでも同じ瞬間のまま、叫ぶように口を開けています。小柄な身長に華奢な肩、包帯の上から微かにわかる胸の膨らみ。その上に乗せられた右手の指先だけが、空中にある何かを追うように、わずかに歪な形で持ち上がっていました。何かを求めるみたいにして。
私は宙に浮いたその指先に、そっと触れてみました。冷たさはなく、しっとりと弾力があるように感じました。こんなに暗くて寒いところに一人でいるのは気の毒でした。
ねえ、あなたのお名前は? 答えを辛抱強く待ちましたが、言葉を失った彼女の傍には沈黙だけが横たわっていました。どうして黙っているの? 私は問いかけました。その沈黙は彼女を追い詰めるのでしょうか、それとも守るのでしょうか。沈黙の理由を問うことは、その沈黙を理解しようとすることであり、それが私自身と関係があるかどうかを問うことでした。彼女は待っているのではないでしょうか。暗闇に追いやられても、ずっと息を潜めて、誰かを、何かを、待っているのではないでしょうか。
私がカミノ氏の寝室へ入ることを許されたのは、初めて星祭りに連れて行かれた日の夜でした。一日中仕事に追われているカミノ氏の足は、筋肉が固くこわばり、冷えてよく眠れないのだそうです。ですから呼ばれればこうして私が手で丹念にほぐす習わしでした。カミノ氏は神経質そうな指の動きでパジャマの裾を、膝のちょうど上のところまで折りたたんで、自ら布団にうつ伏せになります。私は恐る恐るその開かれた足の間に座り、ふくらはぎに触れました。脛の体毛は薄く、年齢のせいか皮膚の弾力は失われて、赤黒い皮に無数の細かい皺ができました。
「少し弱いなあ」
不機嫌な声が寝室に響き渡り、私は手を止めました。指の腹で弱すぎず、強すぎず、爪を立てないように気をつけて触れること。くるぶしから順に上へ、曲線の頂点を押していくこと。何か落ち度があったときはすぐに謝ること。申し訳ありませんでした。
「昨日は、ずいぶん遅くに帰ってきたみたいだけど。暗くなる前に帰ってこいと言わなかったかな」
言いつけを忘れていたつもりはありませんでした。でも、守らなかったということは、忘れていたということです。申し訳ありません、と私はもう一度謝ります。
「お前は健忘症のきらいがあるから気をつけた方がいい。前にもそう言っただろう」
言われたはずのことを忘れてしまったことは一度や二度ではありませんでした。カミノ氏の意図を誤解していることもしばしばですが、私はそれをうまく言葉にして申し開きすることができません。頭に浮かんだ反論の言葉を頭の中で組み立てようとすると、それを打ち消すまた別の考えが浮かび、結局何を選び取ってどう言葉にしてよいのかわからなくなってしまうのです。さらには間違った言葉を使ってしまい、さらに叱責される始末でした。
「心配してくださってありがとうございます。でも、大丈夫です」
カミノ氏は口を閉ざし、周辺に不穏な沈黙が降り立ちました。私はこの予兆を何よりも恐れている。冷や汗が噴き出しました。反抗心から出た言葉ではなく、カミノ氏の貴重な時間を使って心配してもらうようなことではない、と伝えたかっただけなのです。
「心配しているわけじゃない」
ひどく冷静な声でカミノ氏は言いました。
申し訳ありません。
「謝れと言ったわけじゃない。そういうことじゃない。どこに落ち度があるかわかっていないのに謝っても仕方がないだろう。お前は前に同じことを、全く同じことを注意されたときになんと答えたと思う。謝れと言ったわけじゃない」
混乱しました。覚えていないのでなんと答えたらよいのかわかりませんでした。ようやくわかってきたことには、私は記憶だけでなく言葉も不自由なようです。なぜ思い出せないのか。なぜ間違った言葉を使うのか、なぜ嘘をつくのか。なぜどうして、と問い詰められるのが一番苦しいのです。私は謝る以外の言葉を持っていませんでした。
「その、買い物に出て遅くなっただけですから、大丈夫ですから」
「何が大丈夫なんだ。え?」
カミノ氏の声が突然変わりました。目覚まし時計が部屋の壁に激突して、うつ伏せにカラカラ鳴り、やがて静かになりました。突然に視界が揺れて、後頭部のあたりが痺れました。
一体全体、何が大丈夫だというのでしょう。答えを探そうとしましたが、何と返しても容易にカミノ氏の反論が聞こえ、私は口を噤みました。頭の中で考えを巡らすうちに、いつものように、どういう経緯でこんな事態になったのか、そもそもは何の話をしていたのかもわからなくなってしまいました。できることなら時間を戻して、こんな事態になる以前の呑気な自分に戻りたいと思いました。私が分裂する。一瞬前の私と、手遅れだと気づいてしまった後の私。
どこで誰と何をしゃべっているのか知らないけれどね。
もし暴漢に遭遇して、お前一人でどうやって対処するというんだ。何かまともなことができると思っているのか。誰か助けに来てくれると思っているのか。
何もできないだろう。
お前は鴨。
ただの鴨じゃない。呑気な鴨。無防備。無防備な鴨。
カミノ氏は何か言うたびに言葉と言葉の間を少しだけ空けます。私の言い返す余地を残して、そして、それが為されないことをその都度確認するようにして。そのほんの隙間が過ぎ去るたびに私は少しずつすり減って死んでいくような気がしました。カミノ氏の言う通りだと、誰かが深く頷きました。
「無防備だと、自覚しているのか」
声を荒げるということはありませんが、一度食い込ませた牙を絶対に離してはくれません。ゆっくりと少しずつ、獲物を体内へと呑み込んでしまうのです。
まったくカミノ氏の言うとおりなのです。私の身勝手は、私ひとりだけでなく、カミノ氏やヤスにも迷惑をかけてしまうことなのです。私は自分の思慮の浅さに恥じ入りました。
「はい、本当に、私は無防備でした。絶対に、暗くなる前に邸へ戻ります」
「言ったね。それがいい。二度と自分の言ったことを忘れちゃだめだよ」
カミノ氏が牙を仕舞ったときの安堵は何物にも変え難かった。さっきまでふくらはぎをさすっていた私の手首を、カミノ氏はそっと撫でました。
「お前には見どころがあると思っているんだよ。とても大事に思っているんだよ。前のやつよりもね。あいつは縫い物ばかりしてすぐにさぼる。口ばかり一人前で、すぐに泣いたり叫んだりして当たり散らす感情の生き物だよ。それに比べれば、お前は本当にかしこい」
前のお手伝いさんへの仄暗い優越感がじんわりと広がっていきます。エリはずいぶんと奔放な女性だったようです。私と比較する文脈で、エリはカミノ氏との会話に頻繁に登場します。けれど褒められることは新たな恐怖の始まりでもあるのです。またいつ罵倒される側に転落するかわからないのですから。耳触りのよいことばかり言って、心の奥底ではカミノ氏は前のお手伝いさんの我儘をこそ愛していたのではないでしょうか。
カミノ氏から与えられる緊張と弛緩。二つの間で私は為す術なく悶えます。解放されたあとの、存在を許されたような束の間の安息の中、私はこの後与えられるどんな理不尽も耐えなければならないのだと感じます。彼は私の至らなさを赦したのだから、私は彼の行いを受け入れるのです。カミノ氏のもうひとつの手が肩にかかりました。私の肩ではなくて、誰か別の人の肩に。指の重みは確かにあるのにそんな心地がします。急速に私は私から離れていき、外側からそれを眺めている。そんな新鮮な感覚に夢中になっているうちに外から聞き覚えのある懐かしい鐘の音が鳴り響きます。大きくて重い、島の中腹にある教会の鐘の音が身体をぐちゃぐちゃに揺さぶります。私はとてもしなやかな、決して切れることのない強靭なゴムになったような万能感に酔い痴れます。苦痛はどこかへ吸収され同時に、私は、奥深くへと厳重に仕舞い込まれます。
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