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食堂はしんと静まり返っていました。
まだ生温かいポタージュスープが木床へ滴る音が、小さく聴こえています。私が机に乗ったせいで転がり落ちた食器が床に散らばっていました。綿のシャツに染み込んだ液体は冷たくなっていきます。ここが食堂であることも、白い液体がスープというものであることも知っていました。けれどなぜスープは溢れていて、白い皿は床で割れているのか、それは私の知らないことでした。私は落雷や事故か何かに遭ったと思うことにしました。そういうふうに決めたのです。そうでなければ私はこの理由を自分に求める以外になく、自らを深い墓の暗闇へ押し込めていく苦しさにいてもたってもいられなくなる。理解しようという努力をいつしかやめてしまい、私は天井と壁の漆喰を繋ぐ辺にぱっくりと開いたヒビを熱心に眺めていました。地続きだったはずの天井と壁に巨大な地割れができてもう渡れない。この断絶が生まれてはじめに目にした光景でした。白い砂漠の真ん中で、地割れはもう決定的にそれより前と後の道程を隔ててしまって、以前がどんなふうであったか思い出すことができません。今日にも修繕屋を呼ばなければ、と思いました。
私は仮死状態の胎児が突如産声をあげる時さながらに大きく息を吸い込み、一生懸命に手足をつっぱり、半身を起こしました。名前がわかりませんでした。
狭い食堂はやっぱり静まり返っています。こぢんまりとした質素な内装を特徴づけるものがあるとすれば、部屋の狭さには不釣り合いなほどに大きな灯り取りの窓でした。窓。水色の正方形が規則正しく並び、モザイクの柔らかな光を投げかけています。ガラスの向こうはぼんやりとした濁りのない青色で、私は今日が穏やかな晴天であることを知りました。私は目を凝らしました。それは海らしきものでした。私が自覚したばかりの世界では、こっちの方角に低く広がる海が見渡せるはずだとすでに心得ていたのですが、曇りガラスに妨げられて、空にも海にも見える青い四角が積み重なっているだけでした。海があることを知らなければ、そうだとはわからないでしょう。けれど確かに、それは海のはずなのでした。
暗闇に赤い四角がいくつも並んで見えました。薄い皮膚で隔ててしまえば、視ていたものとそっくりの反転した世界が現れる。それはまっすぐ並んでいたと思えば端から輪郭を失い粒になって霧散してしまいます。おめでとう。右、左、上、下、意志を持って這いまわる虫のひとつひとつを捉えようすると逃げていき、背景の色は緑と思ったら赤や黄色に突然移り変わり、私の誕生日を祝うように点滅する。私はその色の一つ一つに何かを思い出しかけ、そして諦める。鼓膜の奥で羽虫のように耳を塞ぐ執拗な罵声と怒号、長く伸びる金切り声が鳴っているのに、視界がもたらす眩暈に夢中になっているうちに、捉えようとしたものが何であったのかを、私は忘れてしまうのでした。
大人ひとりと子どもひとりぶんの朝食を用意して食堂へ運ぶのは、私の仕事です。白い取り皿の両脇に銀のカトラリーを並べ、焼いたばかりのパンをバスケットに盛ってテーブルの中央へ置きます。窓から朝の光が木綿のテーブルクロスへと降り注ぎ、ポタージュスープの湯気が細かな粒となって立ち上がっています。準備が整ったころ、木床を歩く足音が静かに近づき、カミノ氏がきっかりいつもどおりの時刻に食堂に現れました。
おはようございます。深々と頭を下げると、無愛想な低い声が返ってきました。口はぎゅっと厳格に引き結び、目は神経質そうに、秩序を失って好き勝手になっているものはないかと部屋じゅうを点検している様子でした。検分を終え、昨日と寸分違わない食卓が用意されていることを確かめると、カミノ氏はようやく席につき、まずスープに手をのばします。すでにぱりっとした白いシャツと、磨き上げられた革靴を身につけ、まだ年寄りとも言えない歳なのに白の混じりはじめた頭髪は清潔に撫でつけられていました。いつも身につけている真鍮のカフスは、今日も袖の穴に静かに収まっています。カミノ氏は姿勢を正したままじっと何かに狙いを定めるように黙り込んでいましたが、ふいに大きなため息を吐きました。
食事する姿をじろじろと見るのは、あまり好ましいことではないんだよ。
恥ずかしさで胸のあたりが熱くなりました。彼の発する言葉は、私の浅はかさをいともかんたんに暴き、私を的確に恥じ入らせることができるのでした。慌てて謝罪を口にすると、カミノ氏の雰囲気は幾分やわらかになり、私は詰めていた息を細く長く吐き出しました。
私はカミノ氏の注意を受けながら、何とか仕事を覚えている最中でした。掃除や洗濯ばかりでなく、仕事のお使いやヤスの身の回りの世話に至るまで、細かな注文は多岐にわたり、私が一日のうち自分のために使える時間はほどんどありませんでした。
家事にしても、ただ食事を作ったり、きれいに整えたりすればよいというわけではありません。ここでは、やってはならないこと、守らなければならない手順が山のようにあって、私は複雑に入り組んだ罠をかいくぐって、何とか失敗しないようひとつずつ、ゆっくりとやり抜いていくのでした。
お手伝いさんの服装は黒の膝丈のスカートに白い半袖シャツ、髪の長さは肩までで、後ろで一つに束ねることと決まっていました。一切の装飾品を身につけないこと。カミノ氏の部屋に入るときは三回ノックをして返事があってから入ること。部屋にあるあらゆる物を動かしてはならない。庭の手入れは、庭を時計回りに三周歩いてから始めること。庭に花を植えてはならない。葉っぱに付いている虫やトカゲなどの小動物を発見したときはすみやかに邸の敷地外へ出すこと。裁縫のときは道具を針の一本まで数えなおすこと。掃除のときは北側の部屋から、窓拭きは南側の廊下から順番に。雑巾を持つ手元だけを見ること、窓の外を眺めてはならない。邸の外では人に不必要に話しかけてはならない。歯を見せて笑ってはならない。目を合わせてはならない。話をするときは相手の鼻の下のあたりを見ること。とくに視線に関する決まりは細かく決められていました。目は口ほどに物を言うといいますし、視ることによって引き起こされる厄災を遠ざけよということなのかもしれません。あるいは、きれいなものだけを見て、不浄なものは見ないようにという配慮なのかもしれません。
私は毎日何かしら、予想もしなかったようなことでカミノ氏の機嫌を損ねてしまうので、決まり事は増える一方でした。食べている様子をじろじろ見てはならない。私は新しい決まりを忘れないよう頭の中で繰り返しました。でないとすぐに忘れてしまうのです。
その時、軽快な足音とともにヤスが食堂に入ってきました。父親の言いつけを守り食堂で決して喋らない十二歳の男の子は、椅子にさっさと腰掛け食事を始めました。
「今夜の予定は」
明日の天気を尋ねるようにカミノ氏は言いました。
「何も、ありませんが」
また何か注意を受けるのかと、私は身を固くしました。
「それはよかった。ついてきてほしい用事があるんだ」
どんな用事かはわかりませんでしたが、ふだんは気難しいカミノ氏に乞われたことが嬉しく、私は「はい」と頷いていました。ヤスはパンをちぎっては口へ運びながらカミノ氏と私の会話を静かに聞いていました。
「だって今夜は星祭りの夜だよ。きっといっしょに行くつもりなんじゃない」
だだっ広い玄関で、学校へ出かけるヤスを見送りに出たときに、彼は肩をすくめて言いました。
「あなたは行かないの」
「行かない、友達と遊ぶ。ねえ、前も行ったことがあったでしょう、お父さんと二人で」
ヤスは膝まである紺色のウールのズボンに、シルクのシャツ、学校のロゴの入った紺色のセーター、背中には本革のキャメル色の鞄を背負っています。私は記憶をたどりました。
「いいえ、初めてだけど」
ヤスは私の目をまじまじと見ました。
「そうか、あんたは、初めてなんだ」
ヤスの汗で湿った皮膚から、子ども独特の甘ったるい匂いが立ち上るのを感じました。気をつけてね。彼はいかにも心配そうな目つきでそう呟いたかと思うと、庭を突っ切る石畳を小走りに駆けていきました。
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