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日曜日。学校もバイトもない。 実家の玄関に貼られた貼り紙を剥がしてゴミ袋に入れる。壁には卵とか、犬のフンとかも投げ付けられていて、笑っちゃうほどにひどい。防犯カメラを設置して犯人を割り出してやっても良い。これだって、立派な犯罪だ。父や母は、お前たちに何もしてないじゃないか。 「ずいぶん、ひどいな。」 聞き覚えのある声だった。振り返ってはっとする。 「比嘉さん…。」 「手伝うよ。あきちゃん。」 僕にとって、比嘉さんは戦う相手のはず。それで間違いないと思う。でも、比嘉さんにとって僕は孫。 「ゴム手袋、持ってないだろ?」 僕にゴム手袋を渡して庭の水道からホースを伸ばして、水をかける。 「こんなことは、望んでなかった。俺は俺の怒りだけ届けば良かった。知らないやつの同調なんか求めていない。」 僕は比嘉さんがブラシで壁を洗う姿を眺めてしまう。 「……おじい。」 比嘉さんの手が止まる。 「あ、比嘉さん。…ありがとう。……ございます。」 「俺が撒いた種だ。当然だ。」 こびりついた汚れが落とされていく。 「ホース持って。あきちゃん。」 「はい。え、あの。」 「持って。」 「持ってるだけ?」 「高いところ届かないだろ、チビだから。」 「ひどい」 比嘉さんは、僕に暴言を吐きながら、僕との距離を縮める。昔みたいに笑いながら2人で壁を掃除した。 外壁の汚れを探して家の周りを一周する。 「この部屋だったな。」 比嘉さんが東向きの四畳半の部屋を眺めて言った。 「四畳半の部屋、あの頃と同じです。変わってません。」 「朝日が眩しくてよ」 「東向きだから…ですか?」 「ま、そうだな。」 比嘉さんは、少しだけ昔を思い出すような顔をした。 「僕、誘拐されたんじゃないと思う。」 比嘉さんが僕の方を見るのがわかった。 「比嘉さんだって、ずっと見てましたよね。僕と…父と母…。」 比嘉さんが、家の壁を無言で綺麗な雑巾で拭き始めた。 「そこ汚れてませんよ、比嘉さん。」 「…」 なんで、何も言わないんだろう。 「比嘉さん…」 比嘉さんが黙々と壁を擦る。僕も、真似してみた。手が止まって、比嘉さんがその場にしゃがみ込んだ。 「…菜告は、帰ってこないんだよ。どうやったって、何が真実だって。お前の本当の母ちゃんは帰ってこないんだよ。」 「裁判、行ったんですか。」 「…行くしかないだろ。」 比嘉さんが、裁判で聞いたのは父と母の証言を元に、当時、事故現場の近くに住んでいた人に聞き込みをした結果と、18年前の死亡解剖から出てきたタイヤ痕から割り出した車体が、僕の父と母の乗っていた車と一致しなかったと言うこと。 「俺が菜告に会った時は、腕と脚がバラバラで顔が潰れて…。持ち物は、子どもの服と水筒。会社に行く時のバッグに……全部、血で汚れていたけど。持って帰れるものは受け取った。 アイツはひとり親だったから託児所にお前を預けていて、迎えに行った帰りだったんだ。託児所に問い合わせたけどお前はいなくて。 こんな形で家族を失った気持ちが、あんな幸せな奴らにわかるか…。わかるわけがないだろ!! 俺は、ずっと、恨み続けて…」 リビングの方からガラスの割れる音がした。 「人殺しー!!」 面白半分に誰かが、そう言って、もう一度ガラスの割れる音がした。中に誰かいたら、怪我をするかも知れないのに。よく平気でこんなことができると、怒りより呆れの感情が込み上げる。 「…あきちゃん、俺もアイツらと同じだ。」 比嘉さんが、そう言って立ち上がった。 「中、片付けよう。ごめんな。」 僕は、ポケットから鍵を出した。 「比嘉さんとアイツらは一緒じゃありません。」 僕は、外の窓から部屋を覗いた。 この部屋がこのままなのは、もしかしたら、父と母は比嘉さんがいつか戻ってくるかも知れないと思っていたのかも知れない。父も母も、僕に比嘉さんの話はしなかったけど。 僕の知らないところで3人は、何か共通の意識を持っていたのかも知れない。 「……おじい、父と母から、なんですぐに僕を取り返さなかったの?どうしてウチに住んだの?」 玄関に向かって歩く。 比嘉さんは、その間話さなかった。家の鍵を開けて中に入る。窓ガラスが割られ物が投げ込まれているのは、南向きのリビング。割れたガラスが危ないから仕方なく靴のまま中に入った。 「俺は持病があって、通院してる。」 投げ込まれた石を拾いながら比嘉さんが話す。 「17年前、奥さんとあきちゃんが、そこの待合にいたんだ。顔を見てすぐに分かった。ずっと探していた孫だって。あきちゃんはだいぶぐずっていて、奥さんは、けっこう困ってて。」 僕は、箒でガラスの破片を集めていた。 「近づいてあきちゃんの顔を見たいから、ミルキーを奥さんにあげたんだ。あきちゃんはミルキーが好きだから。奥さんは、にっこり笑って、これこの子好きなんですって。なんとも言えない気持ちだった。知ってるんだ、俺の方が。好物も、好きなキャラクターも、全部。名前を聞いたら、やっぱり秋芳だった。」 比嘉さんは、リビングを片付けながら、話し続けた。 僕はその頃、極度の人見知りで、母にくっついてばかりいた。比嘉さんは、何度か母を見かけ、家を特定できたという。 それから、ウチに住むまでにはさほど時間はかからなかった。でも、比嘉さんは。 「あきちゃんをすぐに返してほしいと言うのは無理だと思った。」 僕は、比嘉さんをじっと見つめた。 「あきちゃんは、生駒さんに懐いていて幸せそうだった」 比嘉さんは、大きくため息をついて。 「生駒さんたちに、問いただした。あきちゃんの本当の名前は、比嘉秋芳だろって。2人は、俺がそう言うとあっさり認めた。」 肩を震わせ、何かを堪えるようだった。 「生駒さんたちは、俺に縋るように言ってきた。どうしても、子どもが欲しかった。この子が、可愛くて仕方がないって。俺だって…俺だって、あきちゃんのこと…初孫で…。」 僕は、少しだけ比嘉さんに近寄って、もう少しだけ近くで話を聞こうと思った。 「だけど俺も。このウチで、家族を取り戻した気分になってたんだ。…家族の夢を見せてもらってたんだ。…憎んでいたはずなのに。」 「おじい…。」 声をかけると、比嘉さんは僕を見つめた。 「僕を探してくれてありがとう。」 僕は、こんなにも愛されているんだと少しだけ嬉しい気分になっていた。 本当の母が亡くなって、それでもどんな形であれ、僕を愛し育ててくれた人たちがいて。 「僕、みんなが好きです。」 「…あきちゃん。」 「おじいも、父も母も。比嘉さん、苦しむのもう終わりませんか。菜告さんは、きっと、おじいが恨んだり憎んだりすること望んでないと思います。」 「…」 「僕の本当のお母さんって多分そういう人だと思うので。」 本当の母が、どんな顔をしていたか全く知らない。どんな性格の人だったかも、どんな声で話すのかも。でも、父と母をきっと許してくれると信じてみる。 「比嘉さん、お願いします。父と母を許してください。」 僕は深々と頭を下げた。
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