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たったそれだけ
よくないことは続くらしい。
わたしの場合、すべて自業自得だからこそ、どこに気持ちをぶつければいいのかわからない。
「あれ…私が注文したの、カフェオレですけど」
「へっ…?」
注文伝票には、確かにカフェオレと記載されてある。
つい、一番回転の多いブレンドコーヒーを提供してしまった。
「すみません!すぐに淹れなおしますので少々お待ちください!本当に申し訳ございませんでした!」
午前中から小さなミスをいくつかやらかしていたが、ついにはお客様にまで迷惑をかけてしまう失敗をしてしまった。
社会人になってからこれまで、こんなにも集中を欠いてしまうなんて初めてで、本当に情けない。
「奈月ちゃん、なんかあったでしょ」
「……沙織さん」
更衣室で中休みを取っていると、まだ休憩時間ではない沙織さんがやってきた。
「飲み会の時ね、奈月ちゃんを見送ったあと、店長が心配してたの。『経験則として、酔ってる時の大事な話は大体失敗する。背中を押すタイミング間違えたかもしれない』……って」
思わず大きな溜息が出てしまった。
「そっちを先に聞きたかったです…」
決して誰のせいでもないけれど、責任転嫁をしたくもなる。
確かに、あのタイミングであんな風に切り出したりしなければ、もっと違った展開になっていたはずだ。
◇
「僕のこと、振ってくれない…?」
拓也くんの言っていることが理解できずに、頭の中が真っ白になった。
どこでなにを間違ってしまったのだろう。
こんなはずではなかったし、多分わたしの想いの半分も拓也くんには伝わっていない。
それは、きっと伝える努力をしてこなかったから。
与えるよりも、どうすればもっと愛してもらえるのかだけを考えてきた結果がこの有り様だ。
一方的に愛を搾取しすぎた末に、拓也くんを傷つけた。
細身な外見に反して、意外と筋肉質で引き締まった広い背中が、今はとても哀しそうに見える。いつもはもっと真っ直ぐに伸びているはずの丸まった背中におでこを押し付けて、彼の胸の上で自分の手首を掴む。
ほどかれないように後ろから力いっぱい抱きしめて、全力でぶんぶんと首を振った。
「やだ!好きなのに…大好きなのに、振るわけないでしょ?なんでそんなこと言うの…」
「僕と一緒にいると、奈月に無理をさせるから…。離れた方がいい」
優しい声は変わらないのに、どこか諦めを滲ませた色を帯びていて、聞いていて涙が込み上げる。
「無理なんてしてないもん!嫌いになったなら、そう言ってよ…。悪いところがあったなら教えて?わたし、直すから…もう一度…好きになってもらえるように……がんばるからッ…」
あふれる涙ごと背中に押し付けて、わたしが今どれほど寂しさを感じているかを、嗚咽混じりになりながらも必死に伝えた。
こんな時ですら涙を武器にして彼の気を引こうとするなんて、自分でも白けてしまうほどのあざとさだとわかっている。
けれど、悲しいのは本当だし、涙は演技なんかじゃなくて、堪えようとしても勝手に流れてくる。
「奈月のことを嫌いになんてなれるわけない。それは絶対にないよ。悪いところもひとつもない。これからも、ずっと奈月を想ってる」
「だったら、これからも、ずっと一緒にいればいいだけでしょ…?わかんない。拓也くんが、なに考えてるのかわかんないよ」
涙で濡れた背中が、拓也くんが声を発するたびに振動する。
加えて声とは違う震えを、擦り付けているおでこに感じた。
「僕は、奈月に幸せになってほしいんだ。自分の道を歩んでほしい。僕が、それを邪魔してしまう」
「邪魔なんて…そんなことない!…わたし、絶対に別れない!わたしと別れたいなら、拓也くんがわたしを振って…」
ぐしゃぐしゃの顔を晒したくはなかったけれど、背中から離れて拓也くんの腕を取る。
振り返ってほしくて、クイクイと腕を引っ張り、半端にこっちに向けられた視線をなんとか掴まえた。
「言ってよ。『お前なんか嫌いになった。二度と顔も見たくない』って…。じゃなきゃ、別れてなんてあげない。わたしと別れたいなら、ちゃんとわたしを傷つけて」
拓也くんがゆるりと一度、左右に大きく首を振った。
「言えるわけない。できるわけないよ、そんなこと…」
自分からけしかけておいて、酷く安心した。
もし本当に彼からそんなことを言われてしまったら、わたしの心は壊れてしまうかもしれない。
「……わたし、認めない。絶対に離れないから!」
腕にしがみついて身体を押し付けたけれど、優しく、そっとほどかれた。
弱々しく微笑んだ拓也くんが、ゆるゆるとかぶりを振って、わたしに毛布を巻きつける。
「シャワー、浴びてきて。……立てる?ごめんね、無理させて。あとでタクシー呼ぶから…今日は帰って」
初めて「帰って」と言われた。
いつもわたしが帰るときには、隠し切れないほどに寂しそうな顔をしてくれるのに。
心臓を全力で握られているみたいに、ギリギリと締め付けられるような痛みが走る。
どうしてここはわたしの家じゃないんだろう。喧嘩したって、すれ違ったって、一緒にさえいられればなんとかなるかもしれないのに。
「…やだ…帰らない。ずっと、一緒にいる…」
うっすらと水の膜を張る拓也くんの瞳の揺らぎを見て、どれほど悪戯に彼を傷つけてしまったのかを、痛いほど思い知った。
「わかった…。お湯張ってくるから、しっかりあったまってね」
あまりにも悲しそうに微笑むから、従うしかなかった。
シャワーを浴びていると、玄関扉が開いて閉まる音がした。ばたんと閉じた扉の音が、まるで彼から心を閉ざされた音のようで、シャワーと一緒にしょっぱい水が流れていく。
予感はしていたけれど、朝まで待っても、拓也くんは帰ってこなかった。
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