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きっとぼくは忘れられていたんだろうな。
あの人と離れてひとりきり。ずっとさみしかった。
ぎゅぎゅっと縛られたぼくを救ってくれたのは、髪を金色に染め上げたお兄さんだった。
久しぶりすぎて、ほどくのにお兄さんはちょっと苦戦していた。
くわえタバコが危なっかしくて、先端の火で穴があいてしまわないかと、それだけは心配だった。
お兄さんはぼくを片手でにぎると、ポケットからスマホを取り出し、大声で誰かと話しはじめた。
雨足が強くなってこちらもあまり静かとはいえないが、あちらもきっとそうなのだろう。
「こっちまで迎えにこい」とか「もうメシは食った」だとか、なにかの相談をしている。
舌打ちを最後に通話を切ったお兄さんがちょっぴり怖くて逃げ出したくなったけど、ぼくのことは離さずしっかりとつかんでいたからされるがままになっていた。
やってきたのは大きな駅だった。
行き交う人の流れの中に、お兄さんとぼくは馴染んでいた。
無事、ぼくはお兄さんのお役に立つことができたのだ。身も心もきれいに洗われて気持ちがいい。
と、そう思った矢先のことだった。
お兄さんはひとり分の切符を買うとぼくをその場に置き去りにして行ってしまった。
男はめそめそするもんじゃない、わかってる、わかってるんだけど、突然の別れにぽたぽたと涙が止まらなかった。
やがてぼくは足早にやってきたおじさんにさらわれた。
ぬめっとした手のひらが気持ち悪くて、再び逃げ出したくなったけど、しっかり握られてどうにもならない。
おじさんは相当慌てている。
カバンを片方の手でしっかり抱きかかえて走っていたが、なにかに気づくと道路に顔を出し、一台のタクシーを止めた。
ぼくは座席の奥へと押し込まれ、おじさんは行き先を告げた。
ぼくはそこがどこだか知らない。
運転手さんの対応から察するに、そう遠くはないようだった。
どこから走ってきたのか、おじさんはまだ肩で呼吸している。
車内は暖房が効きすぎていて、こちらまでなんだか息苦しくなってきた。
締め上げたネクタイはゆがんでいるし、濡れた革靴は手入れが行き届いてなくて、先端が剥げている。
待ち合わせの時間に遅れそうなサラリーマンってところだが、この分では起死回生の好機が巡ってくることはなさそうだった。
目的地に着くとおじさんは電子マネーでさっさと支払いを済ませ、ぼくを見捨てて出ていった。
幸か不幸か入れ替わりに「ちょうどよかった」と、はっとするほどきれいな女の人が乗り込んできた。
行き先が告げられタクシーはまた走り出した。
一息ついたお姉さんは、バッグを隣の座席に置いたとき、ぼくの存在に気がついた。
「あっ」と、言葉を発しそうになったが思いとどまったようだ。
知らん顔してバッグから鏡を取り出し、濡れた髪型を整えている。
デートかな、と勝手な想像をしてしまう。
入念なメイクはこれからの夜の時間に映えそうだ。
ぼくはお姉さんには不釣り合いだな。
見栄を張りたくてもなにも持ち合わせていないぼくにできることはただひとつ。
わりと長い距離を走行し、お姉さんはぼくを連れてタクシーを降りた。
土砂降りの雨の中、お姉さんはぼくを盾にするようにして歩みを進める。
ぼくだって男だ。お姉さんをできるだけ守りたい。
視界良好なのはいいけれど、もっと大きかったらいいのにと思う。
いや、それよりも、もっと頑丈な男になれれば……。
吹き荒れる風がぼくを苦しめる。
たしか、ぼくは五百円だった。
ぼくって、この程度の男だよ。
どうやらぼくの限界が来たようだ。
お姉さんゴメンね。もう、無理みたい。
ぼくは崩壊寸前だ。
そのときだ。お姉さんはあきらめてぼくを閉じた。
そうしてくれるのはありがたい。
壊れるよりなにより、ぼくの壊れた骨でお姉さんを怪我させたくはなかったから。
お姉さんはぼくが邪魔になったのだろう。
放置してある自転車のカゴにぼくを突っ込んだ。
短命のビニール傘がこれだけ役に立てられたのだから、ぼくはそれだけで幸せだ。
それでもぼくはまだ一縷の望みを捨ててない。
まだ使えるぼくを連れ去る人があらわれることを。
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